みちのく一人旅 (2017.9.6〜9.9)

毎年恒例の夏休み史跡巡りの旅ですが、今年は東北です。

9月6日:
奥州平泉・中尊寺と義経最後の地 → 胆沢城 → 遠野・カッパ淵 → 青森泊まり

9月7日:
斗南藩跡地 → 恐山 → 大間のマグロ → 九戸城 →  盛岡泊まり

9月8日

宮古沖海戦跡地 → リアス式海岸ドライブ → 気仙沼泊まり

9月9日
リアス式海岸ドライブ → 松島 →帰還

と言った旅程となった訳ですが、幸いにも天候に恵まれて楽しい旅となりました(^^)
ではでは以下、旅のもようをお楽しみください☆

また、例年の旅日記では最後にまとめて食べ物レポートをしているところですが、今年からは食べ物関係と史跡巡りじゃない観光はココチップにガイドをまかせますので併せてお楽しみいただけたらと思います☆



9月6日


中尊寺 〜悲しみの果ての栄華〜


平安時代の末期、奥羽の地にこの上ない栄華を誇った奥州藤原氏の王都・平泉に建つ神殿が中尊寺です。


平安一の栄華の都

東北地方というと、どうにも北国で貧しいイメージがあるところですが(ごめんなさい)この頃の奥羽の地は正に宝の山と言ってもいい豊かな土地でした。その豊かさの根源はなんといっても砂金です。奥州藤原氏はその砂金を朝廷に献上することにより独立国としての地位を築き上げ、その中心部には黄金の限りを尽くした中尊寺を建造したのです。


さすがに広いです

さて奥州藤原氏の祖にして中尊寺を築いた人物の名は藤原清衡と言います。清衡はもちまえの武力と政治手腕を活かして奥州を独立国とすることに成功し、平泉は黄金の王都となりました。


豊かな森林が東北の宝です

こうして結果だけを見ると、藤原清衡とは勝ち組中の勝ち組のように思えます。でも彼の生涯を紐解いてみると、決して順風爛漫では無かったどころか、これ以上ないくらいに悲劇の人生を歩んでいるのです。


平泉の都を見下ろして

藤原清衡は幼い頃に父を目の前で惨殺されて母はその相手の妾にされて、最終的にはその相手に復習を果たすことには成功するものの、その過程で自分の妻と子供を殺されているのですから・・・


金色堂はあの中です

日本の歴史を見るに、ここまで極端な人生を歩んでいる人物は他にはなかなか見つけることができません。この上ない天国と地獄を味わった藤原清衡だからこそ、奥州を完全な独立王国に仕立て上げ、貴重な黄金を惜しみなくつぎ込んだ寺を作ることが出来たのではないかと思います。


残念ながら中は撮影禁止

中尊寺金色堂からはそんな清衡の平和への願いが込められているのです。


今は静かで平和な寺院


中尊寺
岩手県平泉町


義経堂 〜源義経最後の戦い〜


日本史上1,2を争うであろう戦の天才・源義経が最後を迎えたのがこの中尊寺のほぼ隣に位置する衣川館です。


衣川を見下ろす高台の上にて

先ほど訪れた中尊寺金色堂は、平日の朝一だというのに凄い賑わいを見せていたというのに、この衣川館にはアタシの他にはたった二人の人としか会うことがありませんでした。


英雄の哀しき最後の地には・・・

源義経と言えば、日本の歴史上初のアイドルと言ってもいい存在です。そんな英雄の終焉の地だというのにこの寂れようはどういうことでしょう・・・それもわずか2km近くにある、義経を殺した愚か者・藤原泰衡の眠る中尊寺にはわんさか参拝客が訪れているというのに・・・


小さな社がただ一つあるだけ

伝承によれば、義経最後の戦となった衣川の戦いにおいて、寄せ手の藤原泰衡軍500に対し、義経の手勢はわずか10名程度だったと言われております。
さすがにこのときばかりは戦の天才・源義経も奇跡の勝利をおさめること叶わず、妻子とともに自害して果てることとなりました。


弁慶も必死に戦ったことでしょう

源義経と言えば、スーパーヒールの平氏一族を滅ぼして京都に凱旋した際にはスーパーヒーローとして称えられ、京都人の人気を一挙独占した華のプリンスでした。得意絶頂だったであろうその時に義経は、それからわずか5年後にそこまで落ちぶれることになろうとは夢にも思っていなかったのではないのでしょうか。


夏草や兵どもが夢の跡

みすぼらしい御堂がたった一つ建てられているだけの義経終焉の地・義経堂・・・このこじんまり感は案外、義経終焉の地としてふさわしい伝わり方なのかもしれません。



義経堂
岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14
 中尊寺から2km程度



この後は平泉の駅前でわんこそばを食べました☆


胆沢城 〜平安古代のロマン城〜


平安時代初期、現在の岩手県奥州市のあたへんは、まだ"日本"の版図に加えてもいいのかどうか微妙な地域でした。


思ってたよかスカスカですね(^^;

当時の東北地方は蝦夷(えぞ・えみし)と呼ばれる民族が支配しており、日本の朝廷と熾烈なる領土争いをしていたのです。


でもかつては東北の都(出張所)だったんです

で、その日本vs蝦夷の戦いにおいて、日本の英雄的征夷大将軍・坂上田村麻呂が前線基地として築いたのが今回訪れた胆沢城です。


ここに立派な政庁があったんですね

田村麻呂はこの胆沢城を足がかりに、誰もなし得なかった蝦夷討伐をついに成し遂げ、本州全土の統一に成功したのでありました。


これはすごいロマンの地だ

ってことでこの胆沢城跡なのですが、なかなかどうして面白かったです。
城跡というよりはむしろ古代遺跡の発掘跡みたいですごくロマンを感じることができました。


坂上田村麻呂は蝦夷をこういう土地することを夢見たんでしょうね

う〜んなんででしょ? アタシは古代史マニアという訳ではないし、坂上田村麻呂やアテルイなんかに思い入れがある訳でもありません。それでも何故か、この土塁と草原がひたすら広がる古代の城跡に立ったとき、なぜか震えが止まりませんでした。


胆沢城跡
岩手県奥州市水沢区佐倉河渋田



このあとは遠野にカッパを捕まえに行きましたw

それから青森でホタテを食べて宿泊です。


9月7日

旅の2日目はまずは青森駅前をおさんぽして、

同じく駅前でごはんを食べて、それから下北半島を北上しました。


斗南藩跡 〜会津藩の終わらない悲劇〜


孝明天皇から一番の信頼を得ていた忠義の藩だったはずなのに・・・かつて薩摩は共に戦い、朝敵・長州を打ち破った盟友だったはずなのに・・・それが一夜にして立場が逆転して朝敵の烙印を押されてしまった会津藩。気がつけば幕府軍代表として薩長軍の猛撃を一手に引き受けることになり、領内を無残にも焦土とされてしまうという最大の不幸に見舞われた会津藩・・・会津若松城落城後もその悲劇はまだ終わってはおりませんでした。
藩主の松平容保は助命され、会津藩そのものは取り潰しにはならなかったものの、容保と生き残った会津藩士たちは陸奥3万石への移封を命じられたのです。


行きついた遠く最果ての地

移封先は現在の青森県下北半島・むつ市近辺。現在ですら辺境中の辺鄙の地である(むつ市の人ごめんなさい)この斗南に移住させられたおおよそ2万の会津の人々は更なる塗炭の苦しみを味わうことになったのです。
もといた会津若松の地は実高40万石にもなろう日本有数の穀倉地帯だったのが、この極寒の斗南の地で取れる石高はたったの3万石です。厳しい北風に吹かれ、火山灰で覆われた不毛の地に追いやられた旧会津藩士たちは苦しい生活を強いられ、病死餓死者が相次ぐこととなったのでありました。
その後、明治新政府の手で廃藩置県が実施されると、大多数の会津人は斗南の地を去り、全国へ散って行きました。中には森林深い斗南の地を必死の思いで開拓し、日本初の民間様式牧場を開設した人物もいたというのがせめてもの救いでしょうか。


それでも藩士みんなで必死に藩の再興を夢見たのでしょう

ってことで行って来た斗南の地なのですが・・・マジ遠杉! まさか青森市から車で2時間もかかるとは思いませんでしたよ(><) そのうえその道中はほとんどが森に覆われていて集落なんて殆どないし、車で走っているアタシですらトイレまだかー!コーヒー売ってねーぞー!とか思いながら移動していたんですから、増してや徒歩移動、それも極寒の地への強制送還行進だった旧会津藩の人たちの悲哀は想像を絶するものだったことでしょう。
そのうえ実際に訪れた斗南の町のなんとも言えない最果て感・・・そりゃあ平成の今ですら会津人が長州人のことをうらんでいるって気持ちも分かろうってものです。


まじで寂しすぎる斗南の町


斗南藩政庁跡地・円通寺
青森県むつ市新町4-11



この後は恐山に行き、

その後は本州最北端の地・大間でマグロを食べました。


九戸城 〜ああ勘違いの田舎大名〜


豊臣秀吉が並みいる戦国大名たちをなぎ倒して天下統一を果たしたのは1590年であると、歴史の教科書にはそのように書いてあると思います。
ですがそれで戦国の世に平和が訪れたのかと言えば少し違います。なるほど確かに、1590年に小田原城の北条氏を倒したことにより秀吉に逆らう大名がいなくなったのは事実ですが、秀吉が発した惣無事令・・・大名同士の私闘を禁ずるという命令までもが完全に守られていたというと、それは微妙なものだったのです。
特に東北の地ではその傾向が顕著でした。実際に秀吉率いる圧倒的な大軍と戦った九州四国勢とは違い、宇都宮での軍事パレードで朱印状を貰っただけの東北の大名たちではその意識が違ったものだったとしても無理のないことでしょう。
秀吉の本当の恐ろしさを知らない一部の大名の領内では宇都宮仕置の内容に大いに不満を持った国人連中であふれ、大々的な一揆が勃発していたのでした。
その中でも特に規模が大きかったのが、この九戸城にて起こった九戸政実(くのへまさざね)の乱です。細かいことを書くとキリが無いのですが、要するに南部家の有力一族であった九戸政実が、秀吉のお墨付きを貰った南部家の当主・南部信直のことが気に入らないから反乱を起こしたという話です。
1591年6月、東北の連中がヒャッハーしている状況にいい加減キレ気味だった秀吉は奥州仕置軍を結成して九戸政実の籠る九戸城に迫ります。この九戸政実の乱の鎮圧は自分の力のすごさを東北の連中に見せつけてやるイイ機会と思ったのか、秀吉は九戸城の撫で斬りを命じ、九戸城は多くの城兵城民とともに業火に包まれたのです。


ここで悲劇の大殺戮が

この九戸城攻めの容赦無さを目の当たりに見せつけられた東北の大名連中は震えおののきおとなしくなり、これでようやく東北の地から戦が無くなったのでした。

ってことで訪れてみた九戸城なのですが・・・


これが九戸政実の城!?

なんじゃこりゃああ!!!!!デカすぎだろ(><)
あたしゃてっきり九戸政実なんざ地方の小豪族に毛が生えたようなモンだろくらいに思っていたんですよ。東北の田舎侍が天下人さまに逆らおうなんざ1億光年はええだろ全くもって井の中の蛙の勘違いもははなはだしいと思いきや、なるほどこんなすげえ城を治めていたんじゃあちょっと調子コキたくなっても仕方ないですね。


土塁と空堀も超立派

まあよくよく考えたら南部家は石高こそ20万石程度なれど、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われたほど広大な領地を持った大名だった訳ですから、そのナンバー2ともなればそうバカにしたものでもありません。


これが家老クラスの城かよ・・・

それにしても家老クラスにしてこんなバカでかい城を持っている南部家って実はかなり凄い大名だったんだなって改めて思わされました。
こんなヤツが背後にいたんじゃあ伊達政宗があと10年速く生まれていたとしても、天下は取れそうにありませんね。


史跡としての保存状態までバッチリ

九戸城
岩手県二戸市福岡城ノ内


この日は盛岡市に泊まりました。


9月8日


宮古湾 〜奇襲海戦・アボルダージュ!〜


戊辰戦争で敗れ敗れた旧幕府軍は北へ北へとのがれて行き、最後は箱館の五稜郭に立てこもり、蝦夷共和国を名乗って新政府への抵抗を続けたのはご存じのこととかと思います。
1869年3月、新政府軍はこの蝦夷共和国を叩くべく4隻の戦艦を出動させました。その4隻の戦艦がそのまま攻めてきたら勝ち目は無い!そう考えた旧幕府軍は一か八かの大博打作戦を敢行します。それがこの宮古湾で起こった宮古湾海戦なのです。


旧幕府海軍の運命、この海に託される

普通、戦艦同士の海戦と言えば、遠く離れて大砲を撃ち合うものなのですが、この宮古湾海戦は違います。なんと!旧幕府軍艦隊は宮古湾に停泊する新政府軍の戦艦にコッソリ近づいて横付けし、そのまま奪い取ってしまおうという大作戦だったのです。
果たしてそんなに都合よく事が運ぶのだろうか?と素人目にも心配になるこの作戦、やはりそううまく行くことはありませんでした。
まず最初に、敵に見つかることなく宮古湾に突入できるのだろうかという心配事が思いつくところでありますが、海軍奉行・荒井郁之助率いる3隻の艦隊は、無事に宮古湾に辿り着くことすらできませんでした。函館を出港した艦隊は暴風雨に合い、3隻のうち1隻は行方不明、1隻は機関が故障してしまい、まともな戦力は旗艦の回天1隻にまで落ちてしまったのです・・・それでも蝦夷共和国の命運をこの一戦に賭ける荒井郁之助は、回天ただ一隻で宮古港に殴り込みをかけたのでありました。


宮古湾に突入成功!

作戦成功への第一関門の時点ですでに満身創痍の荒井艦隊ですが、それでも何とか宮古港に停泊する新政府軍の戦艦・甲鉄へ奇襲攻撃をかけることに成功します。
・・・が、ここで次の問題が発生します。当初の予定では、甲鉄へ接舷奪取を果たす役割は回天以外の2艦であり、回天はそのサポートに当たる作戦でした。何故なら回天は旧式の外輪型蒸気船であり、艦の両サイドに巨大な車輪がついているために、艦同士を横付けすることができないのです。


甲鉄を奪うんだ!

仕方ないので回天は横付けではなく、バイキング時代の海賊船のように正面から甲鉄に突っ込んで行って見事その艦腹を捕えることが出来たのですが、荒井には更なる不運がつきまといます。回天の戦闘員がいざ甲鉄に乗り移ろうとするも、両艦の間には3mもの高低差があったのです・・・
それでも現場指揮官・甲賀源吾が突撃を命じると、回天の兵士たちは果敢にも甲鉄の甲板へと飛び降りて行きます。
・・・ですが、細い船首から飛び降りてくる回天兵は甲鉄守備兵の恰好の餌食となり、甲鉄に備え付けられたガトリング砲にバタバタとなぎ倒されて行ったのでありました・・・
こうして旧幕府軍起死回生のアボルダージュ作戦は失敗に終わり、蝦夷共和国はいよいよ新政府軍に追い詰められることになったのでありました。


回天この海に散る・・・

さて結果だけを見てみると、旧幕府軍の立てた作戦はあまりに無謀であり、このような敗戦を喫したのも当然の結果かなとは思います。
でも後に、この海戦に新政府軍砲術士官として参戦していた東郷平八郎は、この回天による大作戦のことを「意外こそ起死回生の秘訣」と高く評価し、日本海海戦での采配に活かしたと言われております。
また、数々の不運に見舞われながらも勇猛果敢に戦った回天艦長・甲賀源吾についても、「甲賀という男は天晴れな勇士であった」と敬意を表したそうです。


美しき宮古湾

ってことで訪れてみた宮古湾なのですが・・・とにかく綺麗!美しすぎます(><)
詳しい解説はココチップに任せますが、とにかくリアス式天然良港の海景色の良さに圧倒されてしまいました。
宮古沖海戦が起こったのは3月25日の明け方とのことですが、宮古湾に突入しようとする回天の兵士たちもきっと宮古湾の美しさに感動したのではないかと思います。もしかしたら「俺、この海戦が終わったら国に残した幼馴染とこの宮古湾に新婚旅行に来るんだ・・・」とか言っていたのかもしれませんね。
・・・まあさすがにそれは無いにしても、もしかしたら回天に乗り込んでいた土方歳三が、「この海戦で見事勝利し新政府軍を倒した暁には戦じゃなくて海遊びに来ようぜ!」くらいは言っていたかもしれません。



宮古湾海戦跡地
岩手県宮古市 浄土ヶ浜



この日は気仙沼に泊まり、

次の日は松島で遊んで帰還しました。


てな感じで2017年・みちのく一人旅は無事任務完了となりました。
今回の旅はちょっと史跡巡りが少なめなので、自分的にはちょっと無理矢理コース組んだ感が強かったのですが、東北地方の雄大な自然につつまれたイイ旅となったと思います。
特に青森県は、青い森と書くだけあって、本当に緑豊かな県でした。また、盛岡から宮古に移動する際に越えた奥羽山脈に流れる清流の美しさにも目を奪われましたね。
アタシの夏休み一人旅は基本的に史跡巡りをベースにしている訳ですが、東北地方はそういうの関係無しに、自然を楽しむだけの旅でもぜんぜんいけそうな感じです。
また、今回の旅ではうまいこと行く先々のおいしい名物料理をしっかりコンプリートできたのもよかったです。
でもそのぶん食費がすごいことになりましたけど、やっぱり旅先でそのへんをケチってはいけません☆
おいしい食べ物の思い出ってのは一生プライスレスで話のネタにできますからねw





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