丹波山城琵琶湖週遊記 後編 (2020.9.2〜3)

※前編からの続きです。

大津城 〜もう蛍野郎とは呼ばせねえ〜

1600年9月15日・・・東軍西軍合わせて15万以上の軍勢が激闘を繰り広げた関ヶ原の戦いですが、さすがに天下分け目の大戦というだけあって、美濃の関ヶ原一ヶ所で完結していた訳ではありません。その戦いの業火は北は会津から南は九州まで何ヶ所にも飛び火し、徳川家康派の大名と石田三成派の大名が火花を散らしていたのです。
その中でも上田城における真田昌幸・幸村による徳川秀忠の足止め作戦などが特に有名所でしょうか。なんと!この第二次上田合戦においては真田父子の大活躍により3万8千とも言われる徳川軍本隊が信濃の地に釘付けにされて関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。もしこの徳川秀忠率いる3万8千の軍勢が関ヶ原の戦いに参加していたら、小早川秀秋の裏切りなど無くても簡単に東軍勝利で決着が着いていたかもしれません。

・・・と言いたい所ですが、話はそう簡単なものではありません。先ほども書いたとおり、関ヶ原の戦いは東で徳川秀忠が足止めされていたのと同様の出来事が西の方でも起こっていたのです。関ヶ原からほんの10里程度西に行った琵琶湖畔の大津城て、西国無双・立花宗茂率いる1万5千の軍勢が釘付けにされていたのです。


この立花宗茂なる人物を知らない人のために簡単に説明すると、豊臣秀吉が天下統一後に大阪城に諸大名を集めた際に、

「東国一の勇者は本多平八郎(忠勝)、西国一は立花宗茂、東西無双の勇者がいれば天下も安泰であるな。」

と褒めちぎり、尚且つ満座の諸大名もこぞってあっぱれなものよと褒め称えたというほどの武辺者なのです。(詳しくは赤館城の記事をどうぞ)
そんな西国最強の軍勢がもし足止めを喰わずに西軍として関ヶ原の戦いに加勢していれば?関ケ原の戦いはこれまたどうなっていたかは分からないのです。

徳川秀忠の軍勢を食い止めたのは、ご存じ戦国最強クラスの真田親子です。相手が真田昌幸、幸村という半チート武将ならば徳川秀忠が翻弄されるのも仕方のないことでしょう。
一方、それならこれまた戦国最強レベルの立花宗茂を喰い止めたのは一体どんなに凄い剛の者だったのかと言えば、京極高次という微妙な人物だったというのですからおもしろいものです。
この京極高次がどのような人物なのかと言えば、それまで失敗続きで冷や飯を食っていたところを、妹が秀吉の愛人になったという縁で大名に取り立てられます。
その後、色々な縁があってご存じ茶々・初・お江の戦国三姉妹の次女、初を娶ることとなり、その縁をもって更なる出世を遂げたため、蛍大名(女の尻の光で出世したとの意)などと呼ばれ笑われていたというなんとも締まらない人物なのです。

高次は結局、宗茂の猛攻のすえ大津城を開城させられてしまったのですが、高次のがんばりが無ければ宗茂は関ヶ原の戦いに間に合っていたかもしれません。
東軍総大将の徳川家康は、あの立花宗茂を相手に十分すぎるほどの時間稼ぎをしたことをということで、京極高次の軍功を多いに評価し加増したのでありました。


琵琶湖畔の大津城

西国無双をもってしても簡単に落とせなかったという大津城ですが、現在は琵琶湖畔にひっそりと石碑が立っているだけで当時はいかほどの城だったのかは残念ながら分かりませんでした。

蛍の意地を見せてやる!

立花宗茂が足止されたのは、大津城がそれだけ強力な水城だったがためなのか? いえいえそうではなくて蛍大名とバカにされ続けた男の「今にみていろよ!」という強固な意地が、最強の城壁となって立ちはだかったのかもしれませんね。


大津城
大津市浜大津5丁目2−29


この日は大津に宿泊して近江牛ステーキを食べて♪

翌日は朝から琵琶湖西岸をまわりつつ興聖寺に向かいました。


坂本城 〜明智光秀の居城〜

昨日泊まった琵琶湖畔のホテルから今日の目的地・興聖寺に向かう途中の湖岸道路でふとこんな石碑が目に入ってしまいました。


うっそーん

なんと!坂本城跡ってこんなにショボかったんですか(><)
いやーアタシはてっきり坂本城ってば、もっと門前にぎわう街中に観光地観光地した模擬天守閣や資料館があるような城跡を想像していたんですよ(^^;


たんなる琵琶湖畔の公園の一つですね

というのも、坂本の町は京への入り口にして比叡山の門前町なうえに築城したのがあの明智光秀、そのうえ大河ドラマまであるっていうんですから。少なくとも最低限、以前に訪れた長浜城レベルの整備がされていて、そこにとってつけたような大河ドラマバブル箱モノの一つや二つあると思っていたのがこの低落だってんですからビックリした訳です。


これは大河前からあるのかな?

坂本城が今回の出撃ルート上にあることはもちろん知っておりました。ですが今はコロナの真っただ中ですし、増してや大河バブルで観光内観光地しているようなところに行くタイミングは今じゃないなって思っていたからこそ坂本城は攻略先には入れていなかったのですよ。
でもこのように、誰もいない何もない城跡だってのなら話は別です。さっと車をUターンさせて攻略することといたしました。


なんだよこの歌w

ですがアタシにはまだ坂本城に対する心の準備がされていなかったのですよ(^^;
通常アタシが古城を訪れる場合、自分が何のために何を目当てにその城を攻略するのか?そういったことを心に決めての出撃をしているのですよ。そうした心の準備があったればこそ、目的地に到着するまでの高揚感、任務完了時の達成感が得られ、あとから記事を書くのにも気合が入るってものなのです。

ってことで今回はこのような奇襲攻撃だったために、坂本城に対する想いや理由がまとまっておらず、記事らしい記事を書くことができないのですよ(^^;
さすがのアタシも坂本城が明智光秀の城だってことくらいはもともと知っておりましたし、明智光秀と言えばこれだろっていう本能寺の変に関する知識もそこそこには持っております。
とは言ったものの、今回はそう言った明智光秀&本能寺話を書くタイミングではないと思いますので、写真の紹介だけにとどめておきますね。


光秀は琵琶湖に何を思った?

それにしてもほんと、あの明智光秀の城にして大河ドラマの舞台にまでなっている坂本城跡が、まさかこれほどまでに整備されていないとは意外でした。


坂本城
滋賀県大津市下阪本3丁目1



興聖寺庭園 京を夢見る将軍様〜

以前にも少し書いたことがありますが、歴代室町将軍の大半が、幸薄い人生を歩んでおります。
特に応仁の乱以降、征夷大将軍とは担いでくれた有力大名と運命を共にする傀儡神輿と言ってもいいような存在に成り果てておりました。当時の状況を説明すると・・・

細川Aが勢力を拡大するために足利Aを将軍として擁立すれば、それを良しとしない細川Aの一族の細川Bが、足利Aのいとこの足利Bをかついで京に攻め入って細川A足利Aを追放したかと思えば、今度は細川Cが再び足利Aを擁立しようと動きだしたものの、やっぱり足利Bとは反りが合わなかった細川Bが足利Bと縁を切って足利Aと仲直りしてついでに細川Cも自派に組み込んで改めて細川Aと対立するみたいな訳の分からない状況が続いていたのです。
・・・ってアタシ自身書いててなんだかよく分からなくなって来ましたけれど、実際の史実もマジでこんな感じです。細川本家とその分家、足利本家と堀越公方家が↑な感じで集合離散を繰り返し、更にそこに畠山氏や六角氏と言った大大名が絡んだうえに、今度は細川家の重臣の三好氏が勢力を伸ばして主家を脅かしたりするんですからほんと訳がわかりません。

足利第十二代将軍・足利義晴は、まさにそんな室町末期の傀儡神輿将軍の象徴のような存在でした。そもそもなぜ将軍になれたのかと言えば、かつて将軍職を争った足利義澄派と足利義植派が和睦した結果、とりあえず両者の中間的存在である11才の少年を将軍にしておこうかみたいなノリでの将軍就任だったのです。

そのような不安定な立場の名目上将軍でしかない義晴のその後は、畿内の有力大名の権力争いに翻弄される運命となりました。京都を追われること数知れず、あちこちの有力大名を頼っては京都を奪還、そしてまた追われるという繰り返しでした。
最後は管領・細川晴元と対立して京都を追われ、失意のうちに近江・穴太の地で40年の生涯を終えることになるのです。


将軍ゆかりの朽木谷

今回訪れた朽木谷とは、そんな義晴が長きにわたって滞在し京都の奪還を窺った拠点の一つです。
実地に訪れての感想としては、まさに都落ちの田舎という表現がピッタリな場所です。
京の都から十里程度離れた、琵琶湖の裏手のひっそり山奥の朽木の谷は、想像以上に没落感満載のド田舎でした。


都落ち感ハンパねえ

自分はこんなところにまで追い詰められて、一方のライバルが京の都でのうのう将軍やっているっていうんじゃあメラメラ復讐の炎が消えることは絶対に無いだろうなというのが現地を訪れての感想ですね。


せめてこれくらいは

この朽木谷の領主・朽木なんとかさんは、そんな無念の義晴のためにこのような庭園を造って慰めたとのことなのですが、そんな朽木さんの心遣いを当の義晴はいったいどのように感じたことでしょう?


将軍様いかがでしょう?

一時とは言え詫びさび庭園に心を癒され、安らかな心持になれたというのなら朽木さんも庭園造園した甲斐もあったことでしょう。でも残念ながら、アタシはきっと違うと思います。義晴はなまじ立派な庭園を見せられたことでますます帰京の思いを膨らませ、決意を新たに京都奪還を心に誓ったのではないかと思います。


余はこのままでは終わらぬ!

義晴最後の地はこの朽木谷ではなく、近江の穴太という場所に築いた中尾城でした。
義晴は最後の最後まで京都奪還の執念を捨てることは無かったと言います。
でもその病床での最後に及び、

そういえば以前に逃れた朽木谷では見事な庭園を造ってもらったんだなあ・・・

そんなことを少しでも思い出し、少しでも安らかな心持ちになっていたと思いたいものですね。


ちょうどいいタイミングだったんで朝ごはんしましたw


鯖寿司はこのへんの名物らしいです

なおこの朽木谷は義晴の息子、第十三代将軍・足利義輝ゆかりの地でもあります。
剣豪将軍と呼ばれた足利義輝のことについてはまたいつかどこかの機会で改めて語りたいですね。


興聖寺
滋賀県高島市朽木岩瀬374


ということでいかがだったでしょうか?ちょっと残念な人たちの微妙なエピソード集はw
こうしてみると日本史上の人物たちも、やっぱり令和に生きる我々と同じ人間で、色々と思い悩んで失敗して精いっぱい生きて来たんだなあって思いますね。
かくいうアタシも今回の旅においても、いろいろ考え失敗し、大変な目にあったりもしています(^^; でもでもやっぱり、そういうのも含めての旅なんだし、順風満帆でないからこそ旅も人生も面白いってものですよ(^^)

さてさて、来年の今頃は世の中どうなっているんでしょう? 早くコロナが終息して、日々平穏な日常が戻ってくることを祈りたいですね。


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こちらの掲示板にてお待ちしております(^^) ◆◇◆


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