丹波山城琵琶湖週遊記 前編 (2020.9.2〜3)

毎年恒例の夏旅ですが、今年はコロナのことがあるので小じんまりとした企画としておきました。
今年のコンセプトは、近場でなおかつ人気の無さそうな場所のみをセレクトする1泊2日の小旅ということで、京都と琵琶湖周辺の城巡りが中心です。
特にテーマらしいものは定めていなかったのですが、いざ後で記事を書き上げてみると、なんとも残念な人物の微妙なエピソードばかりに焦点が当たっていたことに気づきました(笑)
ってことで並べてみると・・・

八上城・・・明智光秀と波多野秀治
洞ヶ峠・・・筒井順慶
槙島城・・・足利義昭
大津城・・・京極高次
坂本城・・・明智光秀
興聖寺・・・足利義晴

一方、テーマ的にはアレだったものの、食べ物的にはかなりイイ出会いがいっぱいあったのがうれしい誤算でしたね☆
ではでは戦国微妙なこぼれエピソード集と山のおいしい食べ物話♪どうぞお楽しみください(^^)


八上城 〜大河で脚光?創作の悲劇〜

戦国時代には丹波国と呼ばれたこの兵庫県中東部と京都府の西部には、波多野氏という戦国大名がおりました。その波多野氏が居城としていたのがこの八上城です。
・・・と言っても今回のお話の主役は波多野氏という訳ではありません。大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公・明智光秀です。


丹波の山奥のお城です

明智光秀と言えば本能寺の変ですが、ではその本能寺の変に至る前の織田軍団における明智光秀のポジションがどのようなものだったかと言えば、織田軍団五大将の一人にして畿内制圧を担当する方面軍司令官だったのです。という訳でこの丹波の地にある八上城においても、明智光秀と当時の波多野氏当主・波多野秀治の間で激戦が繰り広げられたのでありました。


こりゃあ強そうな山城だ

さてこの八上城攻防戦においては、後の本能寺の変にも繋がったと言われる重要事件があったとの伝承があります。
波多野秀治は明智光秀との激闘の末、光秀に降伏することを決意します。ですが、降伏しますと城から出て来たところをバサリと斬られたら困るというので、その身の安全の保証のために光秀は自分の母を人質として八上城に送り込んだのです。そのことで安心した波多野秀治は八上城を出て安土城の織田信長に接見するのですが、そこでなんと!信長は光秀の母が人質となっていることなど百も承知で波多野秀治を磔にかけて殺してしまったのです!
そうなると黙っていられないのは八上城に残っている城兵たちです。おのれよくも騙したなと人質になっている光秀の母を磔返しにしてしまったのでした。
これでは光秀の母は信長に殺されたようなもの・・・その怨みが本能寺の変に繋がったというのがいわゆる本能寺の変・怨恨説の原因の一つに数えられているのです。


この城のどこかで悲劇が?

もっともこのエピソード、現在の研究においては江戸時代に創作された作り話であろうというのがほぼ定説となっております。なので筆者としてもこの話を信じている訳ではありません。
ですがこの八上城において、光秀が丹波攻略戦最大の激戦を繰り広げたというのは間違いありません。何しろ明智光秀が母を人質に送ってまでしてようやく開城させたという話が創作されるくらいなのですから、よほど堅固な山城だったんだろうなと思って来てみたところ、いやーひさびさに出ましたよw

「なんでこんなに出入りするのに疲れる場所に建てるんだYO!」

っていうガッチガチ山城でした。


いやこれかなりキツいぞ(><)

なるほどこりゃあ確かに、あの明智光秀をもってして攻略するのに5年もかかったっていうのも無理ないですね。


本丸攻略!

そんでもって、上記の光秀の母親が殺された伝承にはまだ続きがありまして、なんでも光秀はのちに苦労して平定したこの丹波の国を信長に取り上げられてしまったともいわれているのです。その代わりに羽柴秀吉と強力して毛利と戦って、出雲・岩見(島根県)を攻略したらくれてやるなどという鬼畜命令を受けたとか・・・


いやーマジ苦労しました

いえいえもちろん、この話にしても創作説が濃厚なのですが、そこまでされれば確かに本能寺の変を起こしたくなる気にもなろうってものですよね。


ようやく取った丹波の地なのに・・・


でも逆に言うと当時の人たちにしてみれば、こんな話が創作されるくらい光秀が謀反したっていうことが意外なことだったってことなのです。こればっかしは光秀本人に聞いてみなければわからないところですが、本当に光秀はなぜ大恩ある主君信長を殺したんでしょうね?


こりゃあ出来たの超最近だなw

ところで今回攻略した八上城、もしかしたらと思ったら、やっぱり大河バブルに沸き立っておりましたw
実のところこの八上城は2年前の夏旅のときに攻略するつもりだったのですが、時間の都合でままならなかった忘れ物の一つだったのですよ。
もしその時だったら、遺構ももっと荒れてたでしょうし、こんなに立派で楽しい案内板や幟も立って無かったことでしょう。


駐車場もよく整備されておりました☆

そう思うと2年越しの攻略戦で本当によかったと思います。
また、この幟に書いてあるところによると、麒麟が来るにおける本能寺の変関連のストーリーにはこの八上城攻略戦のことが重要に絡んでくるとのことですので、楽しみにしたいところです。


まさか波多野秀治までwww

※3kmほど離れたところにある丹波篠山のおみやげ屋さんにて



八上城
兵庫県丹波篠山市八上上字高城山



※このあと近くの篠山ってあたへんで色々食べ歩きをしました☆


洞ヶ峠 〜多いに悩む?日和見の坂〜

本能寺の変後に起こった天下分け目の大決戦、明智光秀vs羽柴秀吉による天王山の戦いにおいて、この洞ヶ峠にて多いに迷い悩んだ男がおりました。その名を筒井順慶と言います。
戦国の覇王・織田信長を本能寺にて葬った明智光秀は京の都を制圧し、信長亡き後はぜひ自分に味方するようにと近隣の大名に呼びかけました。
一方、本能寺の悲報を受けた羽柴秀吉は、主君を殺した謀反人・明智光秀を倒そうと元・信長配下の大名に呼びかけます。
こうして畿内の大名たちは、光秀につくか?秀吉につくかの2者択一を迫られたのでありました。
大和(奈良県)の筒井順慶もまた、究極の選択を迫られた大名の一人でした。
順慶はもともとは独立勢力だったのですが、光秀の仲介あっせんにより織田グループの傘下に入ったという大名です。
ってことで順慶の立場としては、もともと信長の部下だったという訳ではないからあえて弔い合戦に名乗りをあげるという義理はありません。という訳で光秀の側につくという選択肢も大いにあり得ました。
・・・とは言ったものの、だからと言っておいそれ簡単に光秀に味方をするのかどうかと言えば話は別です。もし万一、負け馬に乗ってしまえば筒井一族が滅亡してしまうかもしれないのです・・・そこで順慶が下した決断はというと・・・


まずはあの坂まで行こう

大和から京に向かう途中にある洞ヶ峠まで進出してとりあえず様子見をして、勝ちそうな方に味方することにしたのですw
その結果、洞ヶ峠から5kmほど離れたところで行われた光秀軍vs秀吉軍の天王山の戦いの結果、どうやら秀吉が勝ちそうだということを見て取ってから秀吉側につき、まんまと勝ち馬に乗ることができたと言われおりますw
以来、どちらかに味方しなくてはいけない場面において、とりあえず様子見して勝ちそうな方に味方することを、「洞ヶ峠を決め込む」というようになったそうなw


大勢は決したようだぞ

ってことで今日はそんな順慶が洞ヶ峠を決め込んだ洞ヶ峠に出撃してきましたw
なるほどこの洞ヶ峠、ほんとに京都と大阪の府境の坂道の登り詰めの場所にあるんですね〜


看板の向こうは大阪府

そんでもってその記念すべき洞ヶ峠には現在、洞ヶ峠茶屋というものがたっております。
そういうことならアタシもこの茶屋に立ち寄ってぜひとも洞ヶ峠を決め込んでやらなければですよねw


こりゃイイ感じの茶屋だ(^^)

ぼた餅を食べるかわらび餅を食べるか! う〜ん、究極の洞ヶ峠な選択ですw
どっちも超おいしそうなんだけど、腹具合とその後に食べる予定の近江牛ステーキのことを考えると、ぼた餅はちょっと重すぎるかなという結論に達し、わらび餅をおいしく食べてみごと勝ち馬にのることができました♪・・・ってなんか違いますね(^^;


マジで悩みましたw

もっともその洞ヶ峠の話も本当かどうかは微妙で、むしろ洞ヶ峠に出陣したのは光秀の方で、順慶は一貫して秀吉寄りだったという説の方が有力になっているところなんですけどね(^^;


わらび餅おいしかった〜☆

でもそういう細かいことはイイのです! 古くは昔から日和見のメッカとして語り伝えられて来た場所で日和見をキメ込んだ☆それでイイですよね? とんだ濡れ衣?をきせられている筒井順慶にとってはイイ迷惑名誉棄損も大概だとは思いますけれど(^^;
ちなみに筒井順慶にはもう一つ、今現在まで慣用句として伝わる故事成語へのかかわりがあったりします。こちらの方は「元の木阿弥」という話なのですが、こっちの方もなかなかおもしろい話ですので、興味のある方はぜひ調べてみてください☆


洞ヶ峠茶屋
京都府八幡市高野道1


槙島城 〜マジ話が違うんスけど!〜


室町幕府最後の将軍・足利義昭が最後にたてこもった場所がこの宇治にある槙島城です。
足利義昭と言えば、織田信長がかつぎあげた将軍です。
将軍になりたいけれど武力を持たない義昭と、武力はあれど権威が無い信長ということで、両者はお互いに無い部分を補完しあう蜜月関係でした。
ですが両者の関係はだんだんと微妙なものになって来ます。
信長としては義昭には将軍の地位を保証し贅沢三昧はさせてやるからおとなしくお神輿やってろというのが本音です。しかし足利義昭という男は行動力があり頭もキレるというただの傀儡で満足するような男ではありません。将軍は自分なんだから、信長はおとなしく管領なり副将軍なりになってしっかり自分を補佐しろと思っている訳です。
こうして両者の蜜月関係はアッサリ破綻してしまいます。
とは言ったものの、両者ともどもまだまだお互いの弱点を補完する存在であることに変わりはないので、表面上は平静を装いながら、義昭は平然と京の御所に居座り、信長はその将軍御所を今まで通り警護するという奇妙な関係が続いていたのです。

そんなこんななおかしな二人ですが、ついに決定的な破綻を来すときがやってきました。それは戦国最強武将・武田信玄の上洛作戦の発動です。
今までも義昭は水面下で色んな大名に手紙を送って「信長包囲網」を築き上げ信長を苦しめてはいたのですが決定打をあげることはできません。義昭はそのままちゃっかりかごの中の鳥状態を続けるしかありませんでした。

が、しかし、武田信玄は違います。戦国最強を謳われる最強の騎馬隊を率い、さっそく信長の同盟者・徳川家康を三方ヶ原でボコボコの血祭りにあげてしまったというのですから義昭はきっと小躍りして喜んだことでしょう。

今度こそ信長を倒して名実ともに征夷大将軍になれる日が来る! そう判断した義昭はかごの中の鳥状態を脱し、京都郊外の槙島城にたてこもったのでありました。

もしもマジで信玄率いる武田騎馬隊が京になだれ込んだらさすがの信長もかなりヤバかった所でしょう。ですが歴史の神は義昭には微笑まず、信長を選んだのでありました。
なんと!義昭が信長の元を脱出したときにはすでに武田信玄は息を引き取っていたのです!

現代ならそんなことちょっと考えられないところでありますが、戦国時代にはインターネトはおろか、テレビも電話も無かったのです。しかも信玄はその死に際し、

「自分の死は3年間は秘匿せよ。」

などと遺言していたのも地味に利いていたのかもしれません。
ってか信玄!そもそもアンタの西上作戦は義昭様の命を受けてのものなんだから、せめてそのことを義昭様には話しておけよな(^^;


グーグルマップ見た感じこの辺なんだけど・・・

ってことで訪れてみた槙島城なのですが、アタシは京から山あり谷あり向こうにある山城なんだろうなと思って行ってみたら、何の変哲もない超ツルペタ地形のお城じゃないですか(^^;


本当に城跡なんてあるのか?(^^;

いちお当時は宇治川に囲まれている水城だったとのことですが、それにしても京の都から何の地形的障害も無しにほんの三里程度しか離れていないのです。どうあがいても信長の大軍相手に籠城しきれるとは思えません。にもかかわらずココまで来たってことは、義昭はよっぽど戦国最強武将・武田信玄に期待を寄せていたということなのでしょう。


おいおいこれかYO!

ということは、そこまで入れ込み信じていた救世主が実は死んでいたと知ったとき、義昭の落胆は一体どれほどのものだったのか・・・いざ実地にこの弱弱な小城を訪れてみて、改めて義昭の絶望のドン底を暗く感じることができました。


城ってレベルじゃねーぞw

さてその後の槙島城なのですが、アッサリ落城させられてしまったことは言うまでもありません。そして最大最強のライバル武田信玄が死んでしまった今となっては、信長にももう怖いものはありません。もはや神輿の義昭など必要無しとばかりに京の都を追放してしまったです。

ですが義昭はそこで選手生命を絶たれてしまうような軟弱なタマではありません。その後は毛利氏の庇護を受けて鞆幕府なるものを開き、まだまだ京都奪還の夢をあきらめることは無いのでした。


槙島城
京都府宇治市槇島町29の92



後編に続く


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