鞆城 〜我十五代征夷大将軍なり (2016.9.26)

室町幕府の滅亡とは一般的に、足利第15代将軍・義昭が織田信長に追放された1573年と知られているのではないかと思います。
また、室町最後の将軍・足利義昭の一般的イメージというと、信長の傀儡のクセに身の程をわきまえずにちょこまかしていたウザいやつという感じなのではないでしょうか?
でも実際のところは違います。義昭の敷いた信長包囲網はかなりのところまで信長を追い詰め、もし武田信玄が早死にしなければ信長は相当にヤバいところでした。
また、義昭は信長に京を追われた後も、毛利氏の庇護を受けて暗躍していたのです。


我は依然として将軍である!

備後(広島県東半分)の鞆城(ともじょう)に迎え入れられた義昭は、室町幕府に改め鞆幕府を開き、引き続き反信長勢力に働きかけていたのです。


瀬戸内海を見下ろす小高い丘の上で

正確な記録は残っておりませんが、毛利氏と石山本願寺の連携は義昭の仲介あってのことでしょうし、もしかしたら荒木村重別所長治、小寺政職などが織田氏から離反したのも義昭が糸を引いてのものだったかもしれません。


鞆城から眺める瀬戸内海

その後、信長が本能寺の変に倒れ豊臣秀吉が天下を統一する頃には、さすがの義昭も幕府だ将軍だと言っている訳にも行かず、最終的には秀吉の御伽衆に加わることになります。


足利幕府最後の城はここでした

一説によると、秀吉は征夷大将軍の地位を得るために、足利義昭に対して自分を養子にするよう要請するも断られてしまったとも言われております。
この話の真偽のほどは分かりません。しかし足利義昭は信長相手に最後の最後まで将軍としての意地を貫いた根性モノですから、それくらいのプライドを見せていても不思議はないことでしょう。
アタシはこの足利義昭という人のこと、結構好きだったりします。プライドばかりが高い身の程知らずといえば確かにそうなんですけれど、それは義昭は全て男らしい決断を下していたからこそ言えることなのです。
結果はともあれ、清水の舞台から何度も飛び降りつづけた足利義昭の開いた鞆幕府。その跡地は義昭の波乱万丈の人生とは正反対の、ただ穏やかに海を見下ろせる静かな丘の上でした。


鞆城
広島県福山市


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