野田城 〜なお謎を残す戦国最強武将〜 (2019.9.28)

三方ヶ原の戦いで徳川家康を軽く蹴散らした後、戦国最強武将・武田信玄は浜松城で絶賛引きこもる家康を完全放置して浜松で年を越し、その後は西へ西へと向かいます。


まかさここが最後の戦場になろうとは・・・

信玄の次の目標は三河の要衝・野田城でした。この野田城は三河の重要拠点の城ながらも守兵わずか400人の吹けば飛んでしまいそうな小城です。


これは堀切の跡っぽい

にも関わらず野田城は城兵の奮戦もあってかなかなかどうして持ちこたえ、いっこうに落城する気配がありません。
そこで信玄はついには本気を出さざるを得なくなり、本国から金山衆を呼び寄せて井戸を枯らすという大作戦を実行に移します。


あそこから横穴を掘るぞ


400vs27000という絶望的な兵力差ながらもふんばった野田城でしたが、水が無ければ城兵は戦わずしても干からびてしまうしかありません。


水が無ければ戦えねえ


こうして激闘1ヵ月にしてついに野田城は落城してしまったのでありました。


小城ながらもガンガりました

三河の要衝を攻略して意気揚々の武田軍。このまま西上して京を目指すかと思いきや、なんと!ここで謎の反転をして甲府に引き上げてしまったのでした。


この城でいったい何が?

と言うのも、信玄はこの冬真っ最中に行われた攻城戦の最中に、重病になってしまい、そのまま帰らぬ人となってしまったのです・・・

「源四郎、明日には瀬田(京都)に武田の旗を立てよ・・・」

最後に山県昌景にこのように言い残して戦国の巨星は落ちました。
こうして戦国最強武将の上洛の夢は潰え、それからおおよそ2年後にこの野田城からほんの1里くらいしか離れていない長篠の地において、戦国最強武田騎馬隊も滅び去ってしまったのでありました。


信玄はなぜ死んだ?

武田信玄は肺結核で死んだというのが定説となっておりますが、この野田城には一つの伝説が残されております。
なんでも野田城には笛の名手がいて、信玄がその笛の音に聞き惚れていたところ、そこを見事に狙撃されてしまったというのです。そこで慌てて武田軍は城を攻め落として本国に帰ってしまったという・・・


野田城の戦いの真実とは?

また、一般的には京都を目指して進軍していたと言われる武田軍ですが、実はその目的は上洛ではなく、ごく普通な領土拡張のための三河攻略作戦だったのでは無いかという説もあります。
なるほど確かに、言われてみれば家康の本拠である浜松城を放置プレイにするくらいだったら、こんな小城のことも放っておいて、そのまま京都に向かった方が効率よさそうです。
そもそもの目的が三河攻略だったからこそ、要衝の城を時間をかけてでも攻め落としたと考えた方が自然な感じがしますよね。

それにしても歴史には分からないこと謎なこと、そしてロマンな話がなんともたくさん溢れているものです。いったいどれが本当の話で何が真実だったのか? その一端に少しでも触れてみたい感じてみたい・・・そう思えばこそ史跡探訪の旅はやめることができませんね。


野田城
愛知県新城市

※2022.3.12 信玄終焉の候補地の一つ・信玄塚に言ってきました。


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