中国地方一周作戦 その1 (2019.9.3〜6)

今年もやって来ました☆毎年恒例♪夏旅のシーズンが(^^)
今回のテーマは、とにかく西へ行くことでした。というのは、アタシは現在、松本に住んでおりますが、果たして来年もそうなのかは分かりません。新潟に帰っている可能性がとても高いです。
ってことで、松本に住んでるうちに、なるべく西の方に行っておこうと思い、まずはメイン目的地を下関・壇ノ浦と萩の2箇所に定めました。何しろ新潟〜下関は12時間!かかりますが、松本〜下関は10時間。この2時間の差は非常にデカいですからね。
それからその途中で何をどうするかを選定したところ、中国地方を一周しつつ、過去の旅の忘れ物をいくつか取りに行くというような感じとなりました。

初日
明石海峡を渡って淡路島に上陸 → 讃岐うどんを食べる →崇徳院ゆかりの地を巡る →岡山に上陸して宿泊

二日目
壇ノ浦 → 馬関戦争で四カ国連合に占領された砲台跡 → 高杉晋作決起の地・功山寺 → ふぐを食べる → 萩の史跡を巡る → 萩に宿泊・ミコトイカのフルコースを食べる

三日目
山陰をひた走る → 国譲りの地・稲佐の浜 → 出雲大社 → 因幡の白うさぎ → 鳥取砂丘 → 宮津市に宿泊

四日目
天橋立 → 帰還

こんな感じの作戦計画だったのですが、今回はなかなか思うような行動が出来ませんでした。
・・・というのは、途中いろいろ想定外の寄り道をする場面がいくつかあって、当初の予定以上に中身の濃い旅になってしまったのですw
もっとも、さすがはエミ・トラベルを自称するアタシだけあって(笑)もともと当初計画の予定時間よりかなり早く行動を開始していたため、無事に全ての行程+アルファを終了することが出来ました。
ってことで今回の旅では、天候に恵まれたうえで過去の忘れ物をしっかりと回収することができ、すばらしくイイ旅となりました。
ではではその旅の模様をご覧頂けたらと思います。


9月3日

遅い朝食?を淡路島SAで明石焼きを食べて、

お昼は香川で讃岐うどんを食べました。


讃岐の悲しき大怨霊 〜崇徳上皇の流刑地を巡って〜

崇徳上皇・・・歴代天皇の中でもベスト3に入るであろう数奇で悲しい運命を辿りながら、日本史上最大最強の大怨霊になった人物のことを皆さんは御存じでしょうか?
讃岐国の白峯御陵に祀られているこの悲劇の上皇がそもそもなぜ京都ではなく四国に眠っているのかと言えば、それは島流しに遭ったからなのです。ではなぜ島流しにされたのかと言えば、謀反の罪によるものです。ではなぜ謀反を起こしたのかと言えば、父親である鳥羽法皇に徹底的に嫌われていて、謀反を起こさざるを得ないような状況に追い込まれていたからです。ではなぜ鳥羽法皇に嫌われていたのかと言えば、それは崇徳の出生の秘密によるものだったのです・・・


崇徳の流罪先はこんなところ 崇徳が2年過ごした雲井御所跡

鳥羽法皇の祖父は、平安時代末期において、歴代天皇の中でも最も強大な権力を有したであろう白河法皇という人物です。この白河という人は大変な色欲魔神なうえに、自分の愛人だった女性たちを次から次へと配下の者に与えて行くというトンでも無い人物でした。しかもそれがあろうことに、なんと!自分の子供を身ごもった女御を、よりにもよって自分の孫である鳥羽の后にてしまったというのですから凄いものです。その戸籍上は鳥羽の子でありながら実の父親は白河であるという訳の分からない皇子こそが崇徳だったのです。


菊の御門の向こうには ※雲井御所跡

本来の血縁関係で言えば、崇徳は鳥羽から見れば祖父の子供であり父の兄弟・・・つまり叔父さんということになります。という訳で鳥羽は崇徳のことをオジゴ(叔父子)皇子と呼んで嫌いに嫌い抜いておりました。
鳥羽は自分に叔父子を押し付けたトンデモジジイ・白河のことも完全に軽蔑しきっていたことも言うまでもありませんが、絶対権力者である白河には絶対逆らうことは出来ません。とりあえず一度は天皇の位にはつかせてもらったものの、その皇位はすぐに崇徳に譲らされてしまったのです・・・
という訳で、崇徳の悲劇は生まれていたときからの運命によるものなので、本人にはどうしようも無いことでした。


・・・わびしいです ※雲井御所跡

やがて怪物・白河が死に、鳥羽が白河の次の治天の君となると、鳥羽は待ってましたとばかりに崇徳から天皇の位を取り上げ、崇徳を干しにかかったのです。

※治天の君とは、天皇家を代表し、院政を行う上皇(元・天皇)のこと。天皇よりもエラく、天皇の任免権も持っていた。

さらに月日が流れ、治天の君として絶対権力を握っていた鳥羽法皇も病に倒れてしまいます。治天の君の鳥羽が死んでしまったら、崇徳派が巻き返しをはかって自分たちの権力が奪われてしまうのではないか? そう恐れた鳥羽の息子・後白河天皇とその側近は鳥羽の崩御と同時に崇徳とその側近を威圧するべく平清盛、源義朝(頼朝・義経の父)らの武士を集結させたのです。
こうなっては是非もなし、後白河派に対抗するためやむを得ず、崇徳派の公家たちも平忠正(清盛の叔父)、源為義(義朝の父)を呼び寄せ、世に言う「保元の乱」が勃発したのです。
結果、先制攻撃をかけた後白河派が圧勝し、崇徳上皇は謀反の罪に問われ、讃岐国に流罪となったのでありました。


ここが御所跡らしいです ※崇徳が最後をむかえた地にある鼓岡神社

さて遠国で罪人生活を送ることになった崇徳ですが、これまでの自分の行いを多いに反省し、仏の道に邁進し始めます。
「せめて戦乱で無くなった人たちへの供養のために・・・」
崇徳は仏教の経典・五部大乗経を写本し、これを京の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出したところ、なんと! 崇徳のライバルだった後白河は、
「きっとこの経典モドキには呪詛がこめられているに違いない!こんな怪しいもの受け取れるかっ!」
とその崇徳が平和への想いを願って一生懸命書いた経典を送り返してしまったのです!
崇徳(保元)の乱はそもそもが白河院の無茶苦茶という遠因があり、どちらかというと鳥羽と後白河の過度なる心配症が誘発したものであります。
にもかかわらず崇徳は自分の罪を認め、素直に平和への祈りを込めて写経に勤しんだのに・・・そのあまりに酷過ぎる仕打ちに崇徳は大激怒のヤンデレ化してしまったのでありました。

「オレは日本の大魔王となってやる! 皇族を平民に落としてやり、平民を皇とする世の中としてやるから覚えていやがれ! そのための呪いをこの経典にかけてやる!」

崇徳は自らの舌を噛み切ってその経典にこのようなことを書き込み、その後は髪も爪も切らずにまさに大魔王のような姿となって、天皇家のことを呪い続けたそうです・・・


ここで呪いの言葉を書いたんですね ※鼓岡神社

ってことで今回訪れたのは、崇徳が最初に配流となった雲居御所、それから崩御するまでを過ごしたとされる鼓岡神社の御所跡、最期に崇徳の霊を祀った白峰御陵です。
三箇所回った感想としましては、とてもじゃないけど怨霊怨念が満ちているような場所ではないなってことでした。


そんな場所には見えないです ※鼓岡神社

アタシはそもそも、崇徳はそんなに悪い人では無かったんじゃないかと思っております。
ただただ、数奇な悲しい運命に翻弄されただけで、本人は和やかなおとなしい人だったのではないか?そのように思っております。
そんな崇徳がこんなに温和で実り豊かな讃岐の地に流されて、本人としてはむしろ権謀術策うずまく今日の都でヒソヒソ後ろ指をさされながら生きているよりも、むしろ穏やかな日々が過ごせてよかったのではないか? そんなふうに思ってしまいます。


崇徳はここに祀られています ※白峰御陵

でもそんな崇徳が素直な気持ちで写した経典を無碍に扱われたんでは、そりゃあ崇徳がキレるのも無理もないことでしょう・・・ふだんおとなしい人だからこそ、爆発したときはおそろしいものですよ。
でもそんな崇徳の怨念ですが、この美しい瀬戸の海を見ていたら、きっと崇徳はもうそんなことは水に流して許してくれているんじゃないか? そんな気分にもさせられました。


崇徳も許してくれているはず ※白峰御陵

怨霊というものは宥め祀って浄化することができれば、むしろ逆に様々な恩徳を施してくれる善の神になってくれるようです。崇徳もきっと、この美しい瀬戸の海を眺めながら、恩徳の神となってくれていることでしょう。


崇徳の怨霊よ和やかに・・・ ※白峰御陵

ところでこの崇徳ゆかりの讃岐なんですが、実は去年も来ているんですよね(^^;
だったらなぜ去年は崇徳院ゆかりの地めぐりをしなかったのかと言えば、なんのことはありません。屋島のことで頭がいっぱいだったというだけの話です。
別に今回の崇徳院ゆかりの地めぐりは、西上中国一周作戦を実行するに当たって、無理矢理ひり出したという訳ではなく、前々から行ってみたいとは思っていたんですよ。にも関わらずなぜ去年はそのことが頭に浮かばなかったのか我ながらほんとに不思議です(><)
・・・怒ってませんよね?崇徳様(^^;


崇徳上皇ゆかりの地 雲井御所〜鼓岡神社〜白峰御陵
香川県坂出市


その後は瀬戸大橋を渡って与島SAで休憩したあと、

岡山に上陸し、瀬戸内のお寿司を食べて宿泊しました。



9月4日 前編

壇ノ浦古戦場跡 〜関門海峡に想いをよせて〜

源義経による三大源平合戦の最後の舞台となったのがこの関門海峡に位置する壇ノ浦です。
義経が兄・頼朝から平家追討の命令を受け、一の谷の戦いにて大胆不敵に華々しく平家を蹴散らしたのが1184年2月のこと。それからおおよそ1年後、1185年2月に屋島の戦いにてまたしても平家をフルボッコに叩きのめします。平家は瀬戸内海を西へ西へと逃れるのですが、屋島の敗戦からわずか1ヶ月後にこの壇ノ浦の地にて平家を追い詰め滅ぼしてしまったのでした。
こうして改めて義経の軌跡を見直してみると、なんと!義経はたったの1年ちょっとで平家を滅ぼしているのです(><) 徳川家康が豊臣家を滅ぼすのに要した時間が関ヶ原の戦いから実に15年だったことと比べてみると、いかに義経が神速の英雄だったことが分かるというものでしょう。

さて不詳エミールが史跡探訪の旅を始めたのが2009年。義経による三大源平合戦第一弾の舞台となった一の谷を訪れたのは2012年の夏のことです。それから第二弾の屋島を訪れたのは2018年・・・去年のことなので、一の谷の合戦から実に6年の月日が経過しておりました。
最初に源平合戦場巡りを始めてから足かけ7年・・・その間には頼朝挙兵の地・蛭ヶ小島から木曽義仲の倶梨伽羅峠、義経最後の地である平泉などなど源平合戦ゆかりの地をあらかた巡りつくし、ついに辿り着いたこの源平合戦最終章の地・壇ノ浦です。


壇ノ浦SAをはっけん!

ってことでようやく来ることができた壇之浦!
まずは高速道路のSAの上から見下ろしてみたのですが・・・


狭っ!

関門海峡ってこんなに狭いんかー!ってのが第一の感想でしたね。
なるほどこれなら源氏方の和田義盛って武士が船に乗らずに沖から弓を行って武功をあげたって話も納得できましたわ。
それともう一つ、この壇ノ浦の戦いでは事前に義経が潮の流れを綿密に研究していたことが勝利に繋がったと言われておりますが、平家軍は壇ノ浦の潮流のことを知らなかったのでしょうか? よくよく考えてみるとすごく不思議っていうか変ですよね?
そもそも平家はもともと水軍を持っていて水戦が得意だったはずなのに、しかも壇ノ浦は最後の本拠地だったにも関わらずですよ? こんなことは実際この壇ノ浦に訪れるまで考えたことも無かったのですが、関門海峡をひっきり無しに通過して行くたくさんの船を眺めていたら、ふとそんなことが頭に浮かびました。


降りてきた壇ノ浦

さて壇ノ浦古戦場にはちょっとした公園があります。
と言っても壇ノ浦は海戦だったんで、実際に戦闘のあった場所の特定が容易だったんでしょうね。
今から1020年ほど前に、ほんとにほんとのこの目の前の海で源平最期の合戦があったと思うとほんと感動ものでした(><)


ここに安徳天皇と草薙の剣が沈んでいるのか・・・

壇ノ浦の戦いと言えば、安徳天皇が草薙の剣と共に海の底に沈んでいった話が知られていることと思います。
昨日の崇徳上皇も悲劇の人ですが、安徳天皇もそれに輪をかけてかわいそうな方ですよね・・・
もしもアタシが超お金持ちだったら、この海域に探索船を潜らせて草薙の剣と安徳天皇の遺品、後述する平知盛の碇を探し当てたいところです。


これはカッコいい☆

この壇ノ浦古戦場の公園には、こんなにカッコいい義経の八艘飛びの銅像と、これまた悲劇の最期を遂げた、碇を背負った平知盛の銅像が祭られております。
もっとも、義経の八艘飛びってのは、平家方の強い強い武士・能登教経にタイマン勝負を挑まれるも、怖くてビビって八艘の船のをピョンピョン飛んで逃げてった話なんで、そんなにカッコいい話では無いんですけどねw
それに対して、碇を背負った平知盛については、もはやこれまでと海に飛び込み自害するにあたり、絶対浮かび上がって来ないようにということで碇を背負って沈んで行ったというカッコいい最後の話です。
ちなみに、平家総帥・平宗盛も同じく海に飛び込んだのですが、プカプカ浮かんでいるところを捕えられてしまうというカッコ悪い最後を遂げておりますので、やはり知盛の判断は正しかったということになります。


でもなあ・・・

でもこうしてさも誇らしげに無双?している義経も、そのわずか4年後には平知盛なみに悲惨な最期を遂げているのです・・・そう思うと、義経像の隣にあるのが知盛像だということに何か感慨深いものを感じますね。


壇ノ浦古戦場跡
下関市みもすそ川町21の1番

この後、関門トンネルをくぐって九州上陸を果たしました。


9月4日 後編に続きます。


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