倶利伽羅峠 〜義仲と小矢部市の奮闘〜 (2013/6/23)

倶利伽羅峠(くりからとうげ)…今から830年ほど前に起こった一連の源平合戦における、最大と言ってもイイほどの大戦のあった決戦場です。
武士の身でありながら初めて太政大臣の座に昇り、天下人となった平清盛は、敵対勢力の源氏を掃討するために各地に兵を出しました。
清盛に敵対する源氏勢力の中における最大手は、鎌倉に勢力を張った源頼朝と木曽(長野県)で幅を利かせていた木曽義仲の二人です。まず清盛は、若手のホープ・維盛(これもり)を大将に頼朝の討伐軍を差し向けたのですが、残念ながら維盛は富士川の地においてメッタ負けをして逃げ帰ってきました。維盛は清盛の嫡流の孫であり、こんな赤っ恥をかかせられたままでは平家一門全体の威信にかかわります。
「大入道様お願いします!もう一度チャンスを!! 次こそや必ず木曽の山猿をブチのめして参ります!」
汚名挽回に賭ける維盛は10万!の大軍を擁して北陸道をひた進み、越中加賀国境付近、倶利伽羅峠にて木曽義仲軍と対峙することになったのです。


意外と低いのな

越後から出陣して行ったアタシは維盛とは逆ルートでこの倶利伽羅峠に来たのですが、その第一印象は、なんだこんなにチャチい峠だったのかということでした。後述しますが、この戦において木曽義仲は、とある大胆な奇策を弄して大勝利を収めたのですよ。まさかこんな低い山であんな奇策が決まってしまったのかと驚きを禁じえませんでした。
やっぱりこんなふうに、いざ実地を訪ねて見て、初めて分かることがあるからこそ、史跡探訪ってのは楽しいものですね☆


細っそい山道をクネクネと


維盛と反対ルートということは、この道は木曽義仲が5000の軍勢を率いて進軍して来た道ということになります。平家の大軍に対して義仲軍はおおよそ1割。そんな圧倒的兵力差で出陣せざるを得なかった義仲は、いったいどんな心境だったのでしょう? 
なんとなくではありますが、たとえ多勢に無勢だったとしても、義仲は必ず勝てると確信して武者震いしていたような気がします。なにしろ義仲は木曽の山奥で育った野生児です。山での戦で自分に勝てるモノなぞいない! そう信じていたのではないでしょうか?


いよいよ決戦!

ふもとから山道を20分ほど走りますと、いよいよ倶利伽羅峠古戦場跡に到着です。途中、源氏本陣跡やら松尾芭蕉の碑なんかもありましたけど、観光地としての倶利伽羅峠古戦場跡のメインは、この猿ヶ馬場と呼ばれる場所にあった平家側の本陣跡なのです。
源氏本陣跡から平家本陣跡へ向かう途中は、これぞマジで義仲が進軍して行ったルートなんだなあと想像できて、ワクワクが止まりませんでしたよ(><)


負けられない戦いがココにある!

伝承によれば、平維盛はココに本陣を置いて軍議を行ったとのこと。今度こそはと息巻く維盛は、決死の覚悟を決めていたことでしょう。でも維盛は山の戦のことなど全く知らないであろう所詮は平家のお坊ちゃん。それもまさか義仲があのような手を使って来るとは夢にも思わなかったことでしょう…


何が起こっているんだ!

義仲の使った奇策とは! 夜陰に乗じて角にたいまつを灯した牛の大群を突っ込ませることだったのです! 右も左も分からない闇夜に突如ドドド!!!と押し寄せて来る猛獣の群れ! 平家軍はたちまち大混乱に陥ります!


押すなよ、絶対押すなよ!

逃げまとう平家の武士たちは次々とこの地獄谷の底へと落ちて行き、結局、維盛は半数以上の兵を失って京へと逃げ帰ることになります。こうしてこの倶利伽羅峠の戦いは、義仲の大勝利に終わったのでありました。
…もっともこの火牛の計についてなのですが、残念ながら史実ではないでしょう(^^; おそらくは史記にある斉の田単の使った同じような計略の話を、この火牛の計が記載されている唯一のソース・源平衰退記の作者がパクりそこねたのではないかと思われます。
本家・史記のエピソードによれば、田単は牛の角に剣を結びつけ、尻尾に火をつけて突進させるという理に適ったことをやっております。それに対してこの義仲の火牛の計のように角にたいまつを灯したんじゃあ、ただ牛がバタバタするだけでしょう(^^;
とは言ったものの、この倶利伽羅峠の戦いで、木曽義仲が平維盛の大軍を打ち破ったことは事実なのですから、義仲の戦歴に全く傷のつくものではないんですけどね。

さてその後の義仲なのですが、そのまま平家の残党を追って京まで進撃して行ったまでは良かったものの、その後は京の制圧に失敗して敗走することになります。そして近江国粟津においてあえない最後を遂げたのでありました。


無双乙女よ安らかに

木曽義仲と言えば忘れてはいけないのが巴御前です。義仲の幼馴染にして愛妾となり、いつも義仲の傍らに付き添いながら女武者として大活躍したという、それなんてラノベ?と言いたくなるような実在のパーフェクトヒロイン・巴御前。この倶利伽羅峠古戦場跡に来る途中、そんな彼女のことを祭ってあるという碑があったので、立ち寄っておりました。


巴御前の魂よココに

最後の戦いにも敗れ、ついに死ぬことを決めた義仲…巴御前はもちろん最後まで義仲に付き従おうとしたのですが、
「武士が死ぬとき、最後に女を連れていたなんてことになったら大笑いされてしまうわ。さあ早くココから立ち去れ巴!」
最後に義仲はカッコよくツンデレ風に巴御前を落ち延びさせたのでした。
残念ながら巴御前がその後どうなったのかは分かりません。一説によれば、源氏方の有力武将・和田義盛と再婚したとも言われておりますが、あまり信憑性がないようです。
アタシとしては、巴御前が何処で天に召されていたとしても、きっとその魂は、義仲一番の晴れ舞台であった倶利伽羅峠の入り口の、この静かな緑に囲まれた安楽の地に来てくれていると信じたいです。

また、負けられない戦いで負けてしまった維盛なのですが、さすがに清盛もこれ以上庇うことは出来ませんでした。清盛の死後、父・重盛にも先立たれていた維盛は、完全に一門内で浮いてしまうことになます。失意の維盛は一の谷の戦いの最中にひそかに陣所を抜け出し、熊野において入水自殺を遂げたのでありました…


源平の武者たちよ安らかに

倶利伽羅峠古戦場を抜けた先には、倶利伽羅不動寺というなかなかカッコいい寺があります。この倶利伽羅峠の戦いは、勝った方の義仲にしても、なまじ大勝してしまったがために死期を早めてしまったのですから、真の勝利者だったとは言えないでしょう。
結局のところ勝者はいなかったとも言えるこの戦の犠牲者たちに祈りを捧げ、くりからそばとおでんを食べて、帰還することとしました。
…ってそばとおでんは関係ないな(爆)ちなみにこの倶利伽羅不動寺にしても、特に義仲や維盛のことを祀っているという訳ではないようです(^^; …ってせっかくココまでしんみりイイ話っぽく書いてきたんだから、最後もうちょいうまく〆ろってのな自分(><)


倶利伽羅峠からの眺め

という訳で、この倶利伽羅峠近辺は、自然豊かで見所多彩、アタシのような「何もない、だがそれがいい」な歴史オタのみならず、一般的な観光客でも十二分に楽しめるスポットでした☆
…にも関わらず、なんでこんなに人がいねーんだよ(^^;


ガンガって作ってます

この倶利伽羅峠は富山県小矢部市に位置し、小矢部市内にもこのような木曽義仲の記念館的なものがあります。


カッコいいじゃんか!

こんなに立派な木曽義仲像もあって、小矢部市の倶利伽羅峠観光誘致に懸ける意気込みが伝わって来るのですが、残念ながらほとんど集客に結びついていないようです。
アタシがこの義仲記念館を訪れたのは、まだ暑くない6月の晴れた日曜日の午後12:30という、絶好の観光日和時間帯だったというのにも関わらず、観光客がアタシ以外のタダの一人もいなかったのですよ。
この記念館には、おそば屋さんスペースも併設されていたのですが、こちらの方にも誰一人そばっている人などおりません。その姿があんましかわいそうだったんで、アタシが肉うどんを注文しつつ、ヒマそうなバイトのにーちゃんに話を聞いてみたところ、なんでも小矢部市では大河ドラマに木曽義仲を誘致しようとガンガっており、この記念館もその一環として作られたということを話してくれました。


美化されすぎだろwww

これ見たら、なんだか以前に書いた源頼朝物語において、木曽義仲のことをかなり残念な人物に描いてしまったことを申し訳なく思ってしまいましたよ(^^;
そういえば思い直してみると、かくいうアタシ自身、古戦場大好きな歴史オタのはずなのに、何故かこの倶利伽羅峠に来ようとは今まであんまし考えたことがありませんでした。アタシですらそうなんだから、増してや一般人なら押してしるべしですよね。
その理由を改めて考えてみると、どうやら原因は木曽義仲にたどり着きそうです。結局のところ、この木曽義仲なる人物がアタシ的にみてあまりカッコいい人物でなかったからこそ、倶利伽羅峠に来ようとは思っていなかったのではないかと思われます。これがもしも源義経ゆかりの戦場だったとしたら、もっと早くにこの倶利伽羅峠を訪れていたことでしょう。
ということは、もしも大河ドラマ等で木曽義仲のイメージがグンと上がったとしたら、この倶利伽羅峠にはワンサカ人が押し寄せて来る可能性は多いにありますね。やっぱり人物のイメージってのは凄く大事なものです。


こんなお宮もあるのに

この埴生護国八幡宮も、この義仲記念館っぽい場所に併設されています。って言うか、この埴生護国八幡宮に併せて記念館が作られたんでしょうね。


こんなイイのも走ってるのに

また、木曽義仲関連の観光スポットを巡る無料のバスも市営で運行されているようです。最寄のJR石動駅からこの埴生護国八幡宮をとおり、倶利伽羅峠古戦場跡までタダで乗って行けるという、めっちゃお得で便利な素晴らしいバスだってのに、こちらの方にも人が乗っている形跡はぜんぜんありませんでした。もったいないものです…

実のところ、アタシはこの小矢部市が木曽義仲を大河ドラマに誘致しようとしていることは知っておりました。最初にそれを知ったとき、「はあ?木曽義仲は木曽の武将であって小矢部じゃねーだろ。倶利伽羅峠があるから木曽義仲ってんなら関が原のある関が原町が大河ドラマ・徳川家康誘致するみたいなモンじゃねーか」などと考えておりました。
でも実地にこの倶利伽羅峠を訪れてみると、なるほど確かに、こんなに素晴らしい第一級の観光地たる古戦場が、このまま誰も見に来ることなく埋もれているのは物凄く勿体無いなと思いました。
もっともそれでもやはり、小矢部市と木曽義仲そこまで関係ねーだろとも思いますけれど(^^;それでもこの倶利伽羅峠の素晴らしさと小矢部市のガンガりようを見ていたら、小矢部市の大河ドラマ誘致を応援したくなりましたよ。そんでもって、観光地に人を集めるっていうのは本当難しいものなのですね…
まあとにかくだ、倶利伽羅峠はとても楽しめる古戦場観光地ですので、皆さんぜひぜひ訪れて欲しいものです☆


倶利伽羅峠
富山県小矢部市 JR石動駅から巡回バスあり


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