中国地方一周作戦 その2 (2019.9.3〜6)

9月4日前編からの続きです。

9月4日 後編


前田砲台跡 〜届け!関門海峡の豆鉄砲〜


幕末の長州と言えば、ガイジンと見たらとにかく斬れ斬れ斬れ!な過激派攘夷人の温床のような危険地帯でした。
黒船来航以来、外国人にペコペコしまくりでいつまで経っても攘夷を決行しようとしない幕府にシビレを切らした長州藩。それなら腰ぬけ幕府に代わって我らが攘夷を決行してやろうじゃないか!と、瀬戸内海と外海とをつなぐ重要拠点・関門海峡を航行しようとする外国船舶を襲ってやれえ!というなんとも短絡的な思考のもとに無差別砲撃をした地がこの前田砲台です。

さてこうして外国"商船"に奇襲砲撃を加えてみたものの、なんと!長州藩自慢の大砲では外国"商船"すら一隻も沈めることができず、まんまと沖の方に逃げられてしまったのです(^^; それでもエキセントリック長州ボーイたちは、よっしゃ見事夷人どもを追い払った!攘夷を達成したぞバンザーイ!と大はしゃぎしてしまうという・・・しかもそのうえ、

「完全な奇襲攻撃で命中弾を与えたにも関わらず、商船一隻満足に沈めることも出来なかったのに、お前らはいったい何を喜んでいるんだ! これで分かっただろう?今の我らの持つカビの生えたような旧式の大砲では攘夷などできっこない! だから今は外国から最新鋭の大砲を買うなり作り方を学ぶなりしなければ真の攘夷など達成できないのだ!」

という至極真っ当な正論を述べた長州藩の軍事顧問にして西洋砲術研究家の中島名左衛門を、

「何をいうかこの夷人かぶれの腰ぬけめ!」

とばかりにメッタ斬りの惨殺してしまったというのですから何ともはやですね(><)

ちなみにこのとき我らが高杉晋作は何をしていたかというと、このような危険な連中とは距離を置いてひっそり謹慎しておりました。おそらくですが、晋作も中島名左衛門のような先進的思考を持っていたものの、それを言ったら西洋かぶれの腰ぬけ呼ばわりして殺されてしまうのではないかと思い、藩内の過激な連中が一度痛い目にあって目を覚ますのを待っていたのではないかと思われます。
さて偽りの攘夷達成に沸き立つ長州藩ですが、もちろんそのままタダですむはずはありません。その翌月にはアメリカとフランスの軍艦から報復攻撃を受けて大損害を受けてしまいます。
でもでもそれでも、なんと!長州藩の攘夷狂信者たちははまだ懲りずに関門海峡を通る外国商船に豆鉄砲をポンポン鳴らしていたのです。これにはさすがの列強たちも呆れ果て、ついにイギリスフランスアメリカオランダの四カ国連合艦隊が本気も本気の大砲撃をしかけたうえに陸戦隊まで上陸させて、この前田砲台を完全占領してしまったのでありました。
なお、その後この前田砲台と長州藩がどうなったかと言うと、我らが高杉晋作が四カ国連合との談判に及び、その責任の全てを幕府になすりつけてしまうというなんとも破天荒な形で和平交渉を成立させてしまったのです。
また、さすがに今度こそは長州藩士たちの大半が精神論根性論だけでの攘夷実行の不可能を悟ります。ここにきてようやく、長州藩も西洋近代化への道を歩み始めることとなったのでありました。


ペンペン草も生えてない?

ってことでやって来た前田砲台跡ですが、ものの見事に何も無い草むらでしたw


お☆帆船が走ってる☆

それにしてもほんと、こんなに狭い関門海峡を通る船だったら大砲撃てば百発百中だろうに、それでも商船一つ沈められなかったって情けなくないか長州藩!?
そんでもってそのことを誰も何もおかしいヤバと思わなかったのか長州藩士!?


そりゃあ原っぱにされる訳だ・・・

今こうして前田砲台跡には復元建造物的なものは何も置かれていない訳ですが、なるほど四カ国にボコボコにのされ占領されたことを再現するために、あえてそうしているのでは無いかと思えてしまいますね。


その代わりと言っては何ですが

ちなみにこのようにカッコいい砲台跡が、前田砲台跡地ではなく、壇ノ浦古戦場あたへんに復元されております。一見するとこんなすげー大砲なら外国船の1隻や2隻くらいかんたんに沈められそうですが、実際のところ長州の大砲はほとんどこんな感じだったらしいですね(^^;


だめだこりゃ

それにしても改めて、やっぱり読むのと見るのではえらい違いですね。
まさか関門海峡がこんなに狭いとは思いませんでしたし、砲台跡ってのがこんな理想的な迎撃適応地形だったとも思いませんでした。
それでも外国商船の1隻も沈められなかった長州藩・・・しかもそれにも関わらず、長州藩士は誰もそのことに危機感を持たなかったという・・・改めて幕末と言う時代の分かりにくさを実感できたような気がします。


前田砲台跡
下関市前田1丁目7


功山寺の決起 〜高杉晋作の肝っ玉〜

「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけましょうぞ!」

これはアタシが選ぶ、日本史上1,2を争うカッコいい場面においての高杉晋作のセリフです。
時は幕末、舞台は長州・功山寺・・・幕府による長州征伐でボコボコにされ、親幕府派である俗論党の手に落ちてしまった長州藩に、再び維新の炎を灯すべく決起した高杉晋作が言い放ったのが上記の決意表明なのです。

この時の長州藩俗論党の兵力はおおよそ4000人・・・もちろん藩の首脳部は完全に幕府寄りの姿勢を示しております。そのうえ主だった急進派の面々は皆捕えられ、自らが天塩にかけて作り上げた奇兵隊すらもその圧倒的兵力差に及び腰です。
「ここで立たねば幕府を倒す機会は失われてしまう!日本の夜明けのために、今立ち上がらなくてどうするというのだ!!」
そうした晋作の決死の呼びかけに答えた同志の数はわずかに80人・・・これでは兵力4000を数える俗論党にはまるで相手になりそうにありません・・・
でもでもそれでも、晋作は決して諦めること無く、80人の同志たちと共にこの功山寺にて挙兵の決意を固めたのです。

「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけましょうぞ!」

功山寺に居座していた急進派の公家のリーダー的存在である三条実美にこう言い放った晋作は萩城へと進撃を開始します。
最初は80人だった晋作の部隊も、途中で俗論党の拠点を次々と攻略して行くと、晋作に同調する”正義党”の志士たちが次々と合流し、やがて奇兵隊も晋作の配下に戻って来ます。
その後は雪崩を打って”正義党”が勢力を増して行き、ついには俗論党を制圧した晋作が長州藩の実権を完全に握ることになったのでありました。

ってことで訪れた高杉晋作決起の地、功山寺。まず最初に目に入ったのがこの高杉晋作像です。


肖像画そっくりw

思わず、「おお〜っ高杉〜!(><)」って声に出してしまいましたよ(笑)
なにしろその顔が肖像画そっくりなのがすごいw
そんでもって銅像らしいシブ緑なコーティングが相まって、とにかくまずはこの高杉晋作像がちょーかっこよかったです。


寺の中はいたってふつう

それから寺の境内に入ってみたのですが、↑の銅像以外には特に功山寺決起に関する史跡やそこに触れている立て札などが何も見つからないのです。


入り口はこんな感じ

そうこう境内をさまよっているうちに山門に辿りつきました。
でもでもでも、相変わらず功山寺決起に関するものが何も見つからないので、本当にここがあの功山寺で合っているのか?って不安になってしまいましたよ。


やっと見つけた!

そうこうもうちょっと寺の中をさまよっていたら、どうやらこの寺のどこかに決起跡地があるらしいという案内を見つけることができました。そうしてようやくたどり着いたのがこの石碑です。
ええもちろん、声に出して叫びましたとも、
「これより長州男児の肝っ玉、お目にかけましょうぞ!」
ってねw これでようやくスッキリ、高杉の気分になって高揚して満足感を得ることができました。

・・・が、やっぱりこうまで功山寺決起のことに何も触れられていないことには腹立たしい気持ちを覚えます。実はこの功山寺の近くには、毛利長府跡やら毛利家屋敷を始めとした武家屋敷跡、その他にも美術館やら何やらがたくさんあり、そちらの方は十分整備されて観光客が結構来ていてにぎわっているのですよ。だから今更功山寺がどーのこーの言う必要が無いってことなのでしょうか?

この功山寺のとなりに小さなおみやげ屋さんがあり、そこの店主のおばさんと↑みたいな会話をかわしたのですが、
「やはり男児なら決起の場所に立ってみたいものですよねえ。」
みたいなことを言ってくれ、アタシと同じように功山寺決起のアピールが足りな過ぎることを嘆いておりました。

功山寺の決起というのは、決して高杉晋作の一事などという小さな枠に収まるような出来事ではなく、これが無ければ長州藩を完全倒幕路線には進まなかったと言ってもイイくらいの偉業なのですから、山口県、下関市の観光関連の方々にはもう少し何とかして欲しいものです。


功山寺
関市長府川端1丁目2の3


お昼ごはんにフク料理を食べて、萩に向かいました。



大寧寺 〜長門周防の二段階下剋上〜

この大寧寺は、まさに戦国時代を象徴するような人物・大内義隆が、これまた戦国時代を象徴するような人物・陶晴賢に討たれた場所です。


なかなか大きなお寺

ってことでまずは大内義隆が何者なのかと言うと・・・そもそも大内氏は古くは大和朝廷時代からの名族で、室町幕府においては最有力クラスの守護大名として勢力を伸ばし、義隆の父親の大内義興は応仁の乱後に京都を制圧して将軍を後見して事実上の天下人になったという名門中の名門です。
そんな義隆もなかなかの才人で、中国地方一帯に大きな勢力を張ったのですが、そこで現れたのが山陰地方の新興戦国大名・尼子経久です。
経久と義隆は一進一退の攻防を繰り広げたのですが、そこはやはり守旧派対新興勢力の戦いということでジリジリと押されて行きます。
やがて経久が病死すると、義隆は起死回生渾身の一手として経久の子・晴久の本拠地・月山富田城に攻め込むも、見事なまでの返り討ちにあって息子の晴持を失ってしまいます。この件を機に義隆は政治的野心を失い、悠々文化な麻呂大名と化してしまいました。
すると大内家の内部では義隆の麻呂路線を支持する相良武任一派と、尼子との徹底抗戦を支持する陶晴賢一派の真っ二つに別れ対立するという戦国と化してしまったのです。
結果、陶晴賢一派がクーデターを起こし、大内義隆をこの大寧寺の地で殺害してしまったのでありました。


大内義隆ここに眠る

それではその後、陶晴賢がどうなったのかと言えば、なんのかんのと色々あった後、厳島の戦いにおいて毛利元就に殺されてしまい、結果、もともとの大内氏の領土は全て毛利元就の領土となってしまったのでありました。
名門当主が新興勢力に押されたあげく、家中が守旧派と急進派の真っ二つに別れて下克上が起こり、その成り上がり者がさらに下克上をくらって養分になってしまうという、この大内→陶→毛利の移り変わりは正に戦国時代の典型的象徴例と言っていいのではないかと思います。


なぜか上杉憲実の墓なんてものもある

そんな大内義隆終焉の地・大寧寺。機会があったら訪れてみようと前々から思っておりました。
でも今回の中国一周作戦立案にあたり、この大寧寺の場所を調べてみると、アタシが回るであろうメインルートからはちょっと外れております。
アタシはそもそも大内義隆のことが好きな訳でもないし、大寧寺の乱にしても、戦というほどの戦って訳でもありません。
ってことで当初の予定ではスルーするつもりだったこの大寧寺ですが、下関から萩に向かう途中で寄ろうと思えば寄る時間がありそうだったんで、やっぱり寄ってみることにしました。


そこまでして墓参りしたい人物でもないよなあ

・・・が、やっぱりアタシ的には大内義隆はそんなに思い入れのある人物ではありません(^^;
いざ墓所の前まで来ても、こんな階段を登ってまでお参りしなくてイイよなと思い、境内を適当にぐるり一周して帰ることにしました。
まあそれでもやっぱり、この大寧寺には来ておいて良かったとは思います。もし来なかったとしたら、やっぱり自分的には大内義隆には大した興味が無かったということに気付くことなく、のどの小骨奥歯の何かのようにちょっとした引っ掛かりとして残っていたような気がしますので。


大寧寺
山口県長門市深川湯本門前1074の1



萩いろいろ 〜幕末長州藩ゆかりの地巡り〜

この萩市には松下村塾跡をはじめ、幕末の長州藩関連の史跡が数多く残っております。
・・・ですが、みなさんは不思議に思わないでしょうか? それがなぜ"萩"なのかを。
先ほど紹介した前田砲台があったのは下関ですし、長州征伐こと四境戦争における唯一の海戦があった場所も萩城を望む日本海ではなく関門海峡です。
長州の地政的経済的中心地は何処をどう見ても関門海峡を望む下関なのに、なぜ長州藩の本拠地は山陰地方の外れの萩にあったのか? それは関ヶ原の戦いにおいて毛利家が属した西軍が敗れしまったために、戦略交通の要衝である下関に本拠地を置くことを許されなかったのです。毛利家の本拠地を置く場所として、江戸幕府はあえて辺鄙な萩の地を指定したのでありました。
とういう訳でこの萩の地は、実にイイ感じに小じんまりとした田舎感に包まれております。藩庁である萩城を中心に、幕末志士たちのゆかりの地が目白押しに点在しているのですよ。
そんなこんなでこの萩はいつか訪れてみたいと思っていたのですが、いかんせん幕府が選んだ辺境な地だけあって(萩の人ごめんなさい)エラく交通の便が悪いのです。それが今回ようやく念願叶って訪れることができたことに感極まってしまいました(><)
ってことで以下、アタシが巡った長州藩の史跡を紹介させてもらいますね。

◆萩城

実のところ、当初はこの萩城のことはあまり重視していなかったのですよ。
この萩城は戦国時代の城という訳ではないし、大きな戦が無ければ気になる人物がいる訳でもありません。


所詮江戸時代の引きこもり城?


ですが、いざ城の目の前に来て見たら、ふとあることを思い出して、やっぱりこれは絶対に行かなきゃならねえっ!って気になってしまったのです。


むむむそういえば!?

ってことで天守閣を目指してみたのですが、その前に一つ面白い発見をしました。


あれれこの石垣?


たいていの城はこういう場所は立ち入り禁止になっているものなのですが、この萩城の石垣にはなんと普通に登ることが出来るのです。


けっこう怖いぞ(><)

ってことで石垣を登ってみたところ、すぐ下に堀があってしかも柵とか何にもないからあぶねええっ!
でもまあこんなふうに堀にダイブできるロケーションを楽しめる石垣なんて滅多に無いので、これはこれでなんかお得感があってよかったですw


いよいよ天守閣に来たぞ

さてアタシがこの萩城においてどうしても行きたいと思った場所とは天守閣なのですよ。
アタシは基本、”構造物”としての天守閣にはあまり興味が無いところですし、この平城にして復元天主の無い萩城の天守閣跡では、町を見下ろすことも出来ません。
でもでもそれでも、アタシにはどうしてもこの天守閣跡でやりたいことがあったのです。


何もない、だがそれが・・・よくない!

普段から、城の本丸跡には「何もない、だがそれがいい」を是としているアタシですが、この萩城天守閣跡だけは話は別です。この萩城天守閣を管理している観光協会の連中は何も分かっておりません。



たぶんあっちで合ってるよな?

この萩城天守閣には一つの伝説があります。
それは、毎年正月になると藩主と家老が天守閣のてっぺんに登り、

「殿、今年はいかがでありましょうか?」

「いやまだその時期ではない」

というやり取りを交わす儀式を行っていたと伝えられているのです。
これはどういう意味かと言いますと、

「殿、今年”こそ””江戸に攻め込むには”いかがでありましょうか?」

「いやまだその時期ではない」

というやり取りなのです。
要するに、関が原の恨みを忘れずに、いつか江戸幕府に復讐してやろうという思いを先祖代々受け継いで来たっていうことなんですよね。

ってことで分かってもらえたでしょうか?
アタシはこの天守閣跡で、この長州藩儀式ゴッコをやろうと思っていたのですよ。
この萩城天守閣の跡に、復元天守閣や藩主と家老の銅像を立てろとまでは言いませんが、せめて「江戸の方角はあっちです」な看板くらい立てておけばいいのに・・・しょうがないんで自分でスマホのコンパスを起動させて江戸の方角を調べて、一人声を出して長州藩儀式を再現しておりました。
さきほどの功山寺のときも思いましたけど、なんで山口の観光系の人はこういう貴重な観光資源を大事にしないんでしょうね? この長州藩儀式なんて絶好の観光財産だと思うのはアタシだけでしょうか?

萩城を去る際に、受付のおじさんにそのことを話したらちゃんとそのことをメモって、観光協会の人に話しておくと言ってくれました。
もし今後、萩城天守閣跡に江戸の方角を示す看板が設置されたのならば、もしかしたらそれはアタシの功績なのかもしれません。


◆萩の町並み

それからアタシはレンタサイクルを借りて、萩で目当ての場所2箇所に向かったのですが、途中の景観がすんごくイイんですよこの萩の町。


これふつうの住宅街でっせ

ふつーの住宅街にこんなきれいな石垣があるの初めて見ましたもん。


街中にはこんな立て札もいっぱい

こういうところをガンガるのなら、萩城天守閣に立て札の一つくらい立ててくれればいいのになあ・・・


◆高杉晋作生誕の地

今回の萩遠征に当って、2番目に来てみたかったのがこの萩城から自転車で15分ほど飛ばしてたどり着いた高杉晋作の生誕地です。


近いと言えば近いし遠いと言えば遠い

アタシ的にはけっこう遠いなあと思ったのですが、でもそれはふだん車ばかり乗っている現代人のアタシだからそう思うのであって、ふつうに考えれば近い距離ですよね。
萩城周りにはコンパクトに武家屋敷街が固まっていて政庁としてはかなり機能性が高かったように思えます。おかげさまで現代の我々にも観光巡りしやすくなっているのがありがたいですね


この場所で晋作が



雷電降臨


晋作ゆかりの品も


晋作ファンのアタシとしては、ここが晋作の生まれ育った地なんだというだけで、体が震えるくらい感動してしまいました。それ以上書くことはありません(><)


◆晋作生誕地近くのカフェ

この高杉晋作屋敷跡の近くには桂小五郎屋敷跡などもあるのですが、アタシ的には晋作以外の長州藩士にあまり興味はありません。
ってことですぐさま次の目的地に行こうとしたのですが、ふだん乗りなれていない自転車だけにすぐに汗ダラダラになってしまいました(^^;


ふらふらふら・・・

そんな息の上がっているアタシの目の前にこんなものが飛び込んで来たんですから、そりゃあ寄らない方が無理ってものでしょうw


夏みかんふるこーすw

今回この萩に来て初めて知ったんですが、萩って夏みかんの名産地だったんですね。
ってことで頼んだみたのが夏みかんゼリーと夏みかんスカッシュですw
もともとがすんごくおいしいであろうこの2品、疲れ&晋作感動補正がかかってうまさ3倍増くらいだったんじゃないかと思います☆


◆野山獄

萩巡りの目的地その3だったのがこの野山獄です。


獄舎なのか校舎なのか

ここがどういう場所だったのかと言うと、吉田松陰がここに囚人として収監されていた際に、ほかに収監されていた政治犯たちと色々なことを語らい、あげくの果てにかつて松下村塾で行っていたような講義まで始めてしまったという。
吉田松陰が天性の教育者であったことが忍ばれる獄舎跡地です。


◆近くの海w

今から200年前には晋作や松蔭もこの同じ海を眺めていたことでしょう。


もしかして?

何か嫌なことがあったらこの海に向かって叫んだり、夕日を前に友と熱く語り合ったりしていたのかもしれませんw


◆松下村塾跡

アタシはかねて公言しているとおり、一番好きな維新志士は高杉晋作ですが、今回の萩遠征において一番来てみたかったのはこの松下村塾跡です。


現在は松蔭神社となっております

アタシ的には人物としては晋作ファーストなのですが、幕末維新においての歴史的重大事としては、この松下村塾の存在が黒船襲来に匹敵するくらいの重要時だと思っているのですよ。


松蔭先生がいればこそ

だってこの松下村塾があったればこそ、高杉晋作も維新の志に目覚めた訳ですからね。
もっとも、松蔭の教えはあまりにも過激すぎて、なればこそエキセントリック長州藩士を生み出してしまったという負の一面もある訳なのですが、それを差し引いても幕末維新において松下村塾が果たした影響の大きさというものは計り知れないものがあるでしょう。


え、やっぱり!?

さてこの松下村塾、え!こんなに小さいの!?って驚くくらい狭見すぼらしくてビックリすると聞いてはいたものの、やっぱりそのとおりでビックリしてしまいました。松下村塾の部屋数はなんとたったの二間!あわせてせいぜい畳20枚くらいです。


松蔭の想いは今も

でもでもでも、この小さな古木造の小屋の中を眺めていると、何やら目の中に熱いものが溜まってくるのを感じました。


松蔭神社
山口県萩市椿東1537


2日目の夜は、萩の好月旅館に宿泊し、でミコトイカのフルコースを食べました。


9月5日に続きます。


戻る

inserted by FC2 system