三増峠 〜幻の頂上決戦〜 (2022.1.29)

今回訪れたのは、戦国最強武将・武田信玄と関東の覇者・北条氏康の間で行われた「三増峠の戦い」の舞台となった武蔵・相模国境付近の三増峠です。
この三増峠の戦いはNHKの歴史番組「英雄たちの選択」にて「戦国最大の山岳戦・三増峠の戦い〜北条氏康vs武田信玄〜」というタイトルで取り上げられている、いわば関東頂上決戦といっても過言ではない激熱合戦と言いたいところなのですが・・・・


戦国最強武将vs関東の覇者

三増峠の戦いの経緯を簡単に説明すると、それまで同盟関係にあった武田信玄と北条氏康が色々あって仲違いし(っていうか殆ど信玄の一方的裏切りなのですが)信玄は2万の軍勢を率いて氏康の居城・小田原城に攻め込みます。
ですが小田原城はかつて上杉謙信率いる10万!の猛攻を退けた堅城です。いかに戦国最強武将の武田信玄と言えど、2万程度の軍勢では到底攻め落とせるものではありません。もちろん信玄自身もそんなことは百も承知のことで、小田原城を本気で攻略する気はありませんでした。信玄は4日間に渡り小田原城の周りの街を焼き払ったり罵声を浴びせたりの挑発行為を繰り返したあげく甲府に引き上げることにします。すると氏康はその時を待ってましたとばかりに信玄に追撃戦を仕掛けます。ですがもちろん信玄とてそんなことは余裕の想定済みで、迎撃態勢を整えて待ち構えていたのです。
ここに武田軍2万vs北条軍2万が激突する三増峠の戦いの火蓋が切って落とされたのでした。


あの山が三増峠


ってことでいざ出撃して来た三増峠ですが今現在はゴルフ場となっており、切り開かれたコースはまるで曲輪群のようにふもと平野を見下ろしておりました。


なるほど大軍を配置するには持ってこい

この三増峠のゴルフ場コースの中にはなんと!かつて信玄が本陣を置いた場所と伝えられる旗立松が残っているのです。


ゴルフコースの合間をぬって

しかもこの旗立松、ゴルフ場利用者以外立ち入り禁止になっているという訳でもなく、普通にコースの合間をぬって歩いて行けるのですよ。
ふもとの古戦場跡の碑から親切丁寧な看板も続いておりますし、神奈川県愛川町の史跡を大事に保存しようという姿勢にはなんとも好感が持てますね。


あの痩せた松に武田の旗が?

信玄が本陣を置いたという旗立松の地からは小田原城から続く相模の平野部を一目瞭然に見渡すことが出来ます。英雄たちの選択の番組中において、この場所を取ることが出来れば勝ったも同然みたいに言われていたのですが、これはなるほどその通りですよ。


一目瞭然の本陣跡

さてこの三増峠の戦いの結果はどうだったのかと言うと・・・これがなんとも微妙なのですよ。武田方の公式資料である「甲陽軍鑑」によれば、武田軍の死者900に対して北条軍の死者は3000で自軍が勝利したものの有力武将二人を失ったと記録されております。
一方の北条方の公式資料である「北条五代記」や、氏康の息子・氏照が上杉謙信に出した書状などによれば、信玄を討ち取ることは出来ずに敗北したものの、損害は2,30人が戦死した程度の軽微なものだった的なことが書いてあるようです。
果たしてどちらの話が本当なのかは分からないところですが、とりあえず確実なところは

◆三増峠の戦いには氏康自身は出陣せず、息子の氏照・氏邦が主力を率いている。
◆武田・北条双方の資料ともに、勝者は武田であったと書いている。
◆合戦終了後、信玄は悠々と甲府に引き上げている。
◆氏康は2年後に死去するが、信玄と和睦せよと遺言している。

と言ったところです。
この辺の結果から最大公約数的に考えるに、やはり三増峠の戦いはどちらかと言えば武田方の勝利であり、北条軍の損害は3000!とまでは言わないものの、そこそこの兵を失ったというくらいの結果だったのではないかと思われます。


大した戦では無かったのかな?

本戦においては我らが地黄八幡・北条綱成が鉄砲隊を率いて敵将を討ち取ったりとか、武田騎馬軍団の特攻隊長・赤備えの山県昌景の突撃が勝負を決めたなどという話が残っていることにはなんとも胸が躍るのですが、やはり信玄vs氏康の直接対決が実現しなかったのは、戦国マニアとしてはなんとも残念なことに思えますよ。三増峠の戦いのシチュエーションだけを見てみれば、戦国最強武将・武田信玄と関東の覇者・北条氏康が両軍合わせて4万!の軍勢でぶつかりあったのですからこれはもう川中島とか長篠レベルの大戦になってもおかしく無かったんですけどねえ・・・
もっともこれは、信玄も氏康も戦国を代表する名将同士であり、お互いの力量を認め合って恐れていたからこそ、逆に決戦を避けていたようにも思えます。信長の野望では統率力が95を超えてる最強クラスの大将同士、自軍と同等の軍勢でがっぷり四つに構えあったんなら、そりゃあお互いできれば本気の戦いなんてしたくないでしょうねえ。
また、この頃の氏康はすでに半隠居状態であり、果たして自ら出陣できる健康状態であったかも分かりません。河越の戦いで自ら白刃を奮った頃のような全盛期氏康だったのならまた話は違ったのかもしれません。
という訳でこの三増峠の戦いは、戦国最大の山岳戦と謳われるわりには今一つな尻すぼみ合戦であり、だからこそ世間一般的にはあまり有名な戦では無いのではないかと思われます。
全盛期の武田信玄と北条氏康が総力を決した真っ向勝負! 見てみたかったですねえ・・・

三増峠攻略作戦を終了したアタシの松本への帰還ルートは信玄と同じく甲斐周りとなりました。途中、甲斐国・石和温泉付近のHanGingってところでイチゴパフェを食べたのですが、これが激ヤバレベルでおいしかったです(^^)


イチゴパフェおいし〜(^^)

なんのかんのと大変だった小田原遠征から帰って来た信玄も、本拠地の甲斐に戻ってきたらまず真っ先にお茶&おやつして、

「ひええええ!氏康とガチマジ決戦するハメにならなくて良かった〜(><)」

などと三増峠でのことを回想し、ホッと一息ついていたのかもしれませんw


三増峠
神奈川県愛甲郡愛川町三増


Hanging
〒406-0034 山梨県笛吹市石和町唐柏382

イチゴパフェSと紅茶で1200円

オススメ度/★★★★★


それにしても改めて、第四次川中島の戦いって凄い戦だったんだなって思います。なんにせ戦国最強武将と軍神が、お互い2万程度の軍勢を率いて真っ正面からガッチガチの大マジでぶつかり合ったんですからね(><)
あるいは逆に、お互い死傷者数千を出しての本気の戦をやったからこそ信玄と謙信は、周りの戦国大名連中に一目置かれる強危ねえヤツと恐れられることになったのかもしれません。
また、徳川家康が最後に笑うことができたのも、「三方原の戦い」という過去が知れ渡っていたからこそのことなのかもしれません。結果ボコられはしたものの、戦国最強の武田騎馬軍団相手に真っ向突撃するというクレイジームーブをカマしたことによって、三河武士は本気で怒らせると何しでかすか分からんヤツだと恐れられるようになったのではないかと思うところですね。




◆◇◆ お便り感想♪
こちらの掲示板にてお待ちしております(^^) ◆◇◆


戻る

inserted by FC2 system