古河公方館跡&古河城跡 〜したたか公方の庭園城〜 (2017.11.25)

上野下野下総常陸・・・坂東4国のちょうど境目くらいの要衝に、古河という土地があります。かつてこの要衝に都を構え、坂東の台風の目となった男がおりました。その名を足利成氏と言います。



古河の英雄?


関東(坂東)の地というのは古くは平将門の時代から独立志向が旺盛な土地柄であり、その気風は室町時代になっても全く変わっておりませんでした。なればこそ、京都に室町幕府を開いた初代将軍・足利尊氏は、関東を統治する幕府の出先機関として鎌倉に鎌倉府を設置し、自らの次男・基氏を鎌倉公方に命じ、その統治に当たらせることにしたのです。

さてこの鎌倉府、細かい説明は省きますが設立当初からケチがつきまくり、お世辞にも幕府の出先機関としての役目をキッチリ果たしているとは言い難いものがありました。
あげくの果てには4代目鎌倉公方・足利持氏が京都の本家幕府に反乱を起こすも返り討ちに遭い、鎌倉府そのものが完全崩壊することになったのです・・・

が、その後やはり武家の本場関東を統括する人がいないと困るということで、この持氏の遺児を擁して鎌倉府を復活させようという動きが出てきたのです。
とは言ったものの、こういうことをしようとすれば、必ず反対する勢力というものが出てきます。そのへんの事情は当サイトの愛読者ならよく理解してくれているところでしょう。要するに次の鎌倉府のボスは誰なのかを巡り、関東の地は応仁の乱に先駆ける1454年頃から「享徳の乱」という大乱戦戦国状態となってしまったのです。

この享徳の乱はなんと!その後30年にも渡って続くことになったのですが、その中心にいた傑者こそが、鎌倉府を滅亡に追いやった足利持氏の遺児・足利成氏です。
この足利成氏は今一つマイナーですが、なかなかどうして凄いヤツなのです。
当初の鎌倉公方就任こそ幕府の承認を得ていたものの、その後は父・持氏と同じく幕府に反旗を翻すことになります。鎌倉の地を捨てて関東の要衝・古河の地に御所を構え、敵対勢力を次々と潰しにかかったのでありました。



古河公方・ここに誕生


京都の幕府としては当然、そんな状態を容認する訳には行きません。そこで時の将軍・足利義政は成氏に代わる新公方として弟の政知を派遣したのですが、なんと!政知は成氏の勢力が強すぎて鎌倉に入ることが出来なかったのです。政知は伊豆の堀越に御所を構え「堀越公方」を名乗り、古河公方・成氏と対立することになったのです。
こうして足利成氏は幕府と敵対しながらも自称関東公方のままで古河の地に30年以上もの間居座り続け、見事天寿を全うしたのでありました。



関東30年の王城ここに


どうですこの足利成氏、なかなかすごいヤツでしょう。
もっとも、成氏は関東公方とは言ったものの、関東の大名全てを従えた絶対権力者などというものとは程遠いお神輿だった訳ですし、むしろ関東の地を大争乱の渦に巻き込んだ張本人なのですから、英雄英傑とは言い難いものがあります。
ですが貴賤の身から成り上がり、曲がりなりにも関東公方の地位を堅守して本拠地を追われることなく畳の上で死ぬことが出来たのですから、やはりある種の傑者であったとは言えるのではないかと思います。



なんとも見事な庭園


ここまで享徳の乱のことはサラリと書き流していましたけれど、なにしろこの乱は30年間も続いていたのです。いちいち書いていたらキリが無いほどの戦があり、成氏はその全てを乗り越えて関東公方の座を失わなかったのですからやはりタダ者ではありませんよ。同時代の本家足利将軍やその後の関東公方のことを少し調べてみればそのすごさは分かります。



さすがに風流な出丸跡


ということで行って来た戦台風吹き荒れる坂東の中心部で関東公方として君臨した足利成氏の本拠地・古河公方館跡&古河城跡ですが、見ての通り何とも風流に彩られた城跡でした。今から550年の昔、この古河の地は風流などという言葉とは程遠いというか間逆の戦乱激戦地だったはずなんですけどね。
そんな古河の地を一度も落ちることなく30年間も公方として君臨した足利成氏とは、きっと荒い坂東武者とはまるで正反対のインテリ風流人で、煮ても焼いても食えないしたたかさを持った人物だったんだろうなあ・・・古河公方館跡&古河城跡は、歩き回ってみてそんな感想を抱いた鮮やか庭園城でした。

古河公方館跡には楽しきれいな場所がたくさんありましたので、以下ココチップに紹介してもらいますねw

古河公方館跡&古河城跡
茨城県古河市 

※古河公方の最後はこんなふうになりました


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