上御霊神社 〜応仁の乱開戦の地〜 (2020.3.7)

人世でむなし応仁の乱・・・室町時代に起こった日本史上最大にして最長の戦にして戦国時代の夜明けとして語られるこの大乱ですが、その実像は未だにハッキリしておりません。
かつての教科書通りの通説では・・・

1. 八代将軍・足利義政は将軍を引退したがったが子供がいなかったので、弟の義視に将軍職を譲ろうとする。

2. 義視は有力大名の細川勝元を後見人とし、もし今後、義政に子供ができても自分を将軍にすると約束させる。

3. その後すぐ、義政と正室・日野富子との間に子供・義尚が生まれる。

4. 富子は我が子を将軍にするために大大名の山名宗全を義尚の後見人に添え、義政に対して義視との約束を取り消すようせっつく。

5. 義政どちらを将軍にするか決められず。勝元と宗全が次期将軍をどちらかにするかをめぐって対立。そこに細川山名と同等の大大名・畠山家の相続問題が重なって応仁の乱となる。

という感じで説明されておりましたが、現在この説はやや否定されております。
従来の説では、1番の原因が将軍家の跡目争いで、そこに畠山家の相続問題が重なったように言われておりましたが、現在ではその逆で、どちらかと言えば畠山家の相続問題の方が主たる原因で、そこに将軍家の跡目争いも重なったという考えの方が主流です。
もっともこれは、あくまで将軍家の争いと畠山家の争いのことを比べたらどちらが重きをなしたかの話であって、実際はさらにそこに、古くからの名門・細川勝元と新興勢力・山名宗全の対立、細川勝元・山名宗全と言った"大名"と、伊勢貞親ら"将軍側近"らの対立なども絡んでいるので話は簡単ではありません・・・なればこそいまだ応仁の乱はこういうものだったという分かりやすい通説が存在しないのです。
でもそんなわけ分からんむずかしい応仁の乱ですが、その戦端はハッキリしております。これは幕府の裁定に不満を持つ畠山家の一方の後継者候補・畠山政長と畠山義就が戦った「御霊合戦」から応仁の乱が始まりました。


花の御所から数百メートル

畠山政長が、言うことがコロコロ変わる足利義政に軍事的圧力をかけるために布陣したのが、この花の御所の近くにある上御霊神社です。


ここから全てが始まった

こうなってはライバルにして将軍・義政の支持する畠山義就も黙ってはおらず、上御霊に出陣して畠山政長を蹴散らしたのでありました。
これを機に畠山政長を支持する細川勝元派の大名又はその後継者候補と畠山義就を支持する山名宗全派の大名又はその後継者候補が京に集結し、その後10年に及ぶ大乱に発展したのです・・・


どうしてこうなった・・・


なぜ日本を真っ二つに割る大乱が起こったのか?
その責任の大半は優柔不断将軍の足利義政にあります。義政が最初から、畠山の後継者はこっち!将軍の後継者はこっち!とハッキリさせておけばよかったのです。でも実際はそうではなくて、こっち!・・・に一度は決めたけど、反対派がうるさいからやっぱりあっち・・・いややっぱりそれじゃあ向こうも黙っていられないしなあ・・・みたいな感じで双方に希望を持たせてしまったから、二つの派閥ができてしまうのです。
後継者とは最終的には1人に絞られることになり、そうなれば後継者にならなかった方に属した方は路頭に迷ってしまうので必死にならざるを得ません。
また、その争いをタネにしてのしあがってやろうという野心家も存在します。もし劣勢な方について逆転勝利に導くことができたのなら、その後の栄華が約束されるのですからね。応仁の乱も戦国時代も、結局そういったことの積み重ねで起こったことなのです。
もし最高権力者がビシっと早めの決断をしていれば、派閥も生まれず骨肉の争いも起こらないのです。


どうか不屈の決断力を!

京の町を灰燼と化、日本という国を100年以上にわたる戦国時代へと誘うきっかけとなった応仁の乱、その開戦の地は現在、ひっそりと梅が花咲き涼やかに松の木が生えそろう静かな鎮守の森となっております。


上御霊神社
京都市上京区上御霊竪町495番地


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