小弓城 〜まだまだいるよ自称公方〜 (2022.9.7)

皆さんは小弓公方(おゆみくぼう)というものをご存じでしょうか? 室町から戦国初期にかけての関東の地には鎌倉府と呼ばれる幕府の出先機関があり、その鎌倉府が紆余曲折を経て古河公方堀越公方に分裂したということは、それなりに知られていることかと思います。(詳しくは古河城の記事をお読みください)ですがそのうちの一方、古河公方がさらに分裂して小弓公方なんてものが立ったことがあるということまでは、あまり知られていないことでしょう。詳しく書くとキリが無いしアタシ自身も大した知識は無いので深入りは避けますが、要するに関東地方で勢力を拡大しようとした真里谷信清っていう大名が自身の勢力を拡大させるために、当時の古河公方・足利義氏の弟である足利義明を下総国・小弓城に迎え入れ、新たなる公方として擁立しようとしたという話です。真里谷信清も足利義明もそれなりに有能な人物だったがために、南関東の地において古河公方派と小弓公方派の熾烈な抗争が始まったのでした。
んで、この抗争の経過を詳しく解説するのもこれまた膨大な話になってしまうので最終的にどうなったのかだけを簡潔に書くと、北条氏康の父・北条氏綱が国府台合戦において足利義明を討ち取ることに成功し、古河公方・足利義氏を要する北条氏綱が南関東に覇を唱えることになったのでありました。
アタシはこの小弓公方・足利義明という存在が結構好きなのですよ。その一生を紐解いてみると、もともとは僧侶だったのが還俗させられてもう一方の公方の対抗馬として擁立されて傀儡公方たることを期待されたものの、本人は神輿操り人形で満足するようなタマではなく、近隣勢力を巧みに操り取り入って自己勢力を拡大させたという、いわば足利義昭のプチ成功バージョンみたいな感じの人なんですよね。更にその最後が悪あがきのあげくに追放された足利義昭とは違い、正々堂々の大会戦で対抗勢力と決着をつけようとして、そして散って行ったという最後もドラマティックです。
そんなマイナーながらもエミール好みな波乱万丈群雄が虎視眈々坂東の地に睨みを利かせていた本拠地に意気揚々出撃してみると・・・


なんじゃこりゃあああ!!!

なんとー! 現在の小弓城跡は墓地になっており、20ばかしの墓石の群れの中にぽつんとこんな看板が立っているだけでした(><)
今まで何十となく戦国の城を攻略してきて、看板一枚石碑がぽつんという城は何度か見てきましたけれど、まさか墓場の城跡なんてのは初めてですよ(^^; 他人様の墓石の写真を撮ってアップするのも気が引けますので紹介する写真はこれだけです・・・なるほどこれは確かによほどのマニアじゃなければ知らないショボくれ自称公方のお城でした(><)


全体写真はぼかしておきます

さてこの古河小弓紛争の後日談なのですが、戦国時代そして関東地方の総決算、小田原征伐を終えた豊臣秀吉は、事実上の滅亡状態にあった関東公方家を復活させようと計らいます。まずは安房(房総半島南部)の大名・里見氏の庇護を受けていた足利義明の子・頼純を取り立て、小弓公方家を復活させました。それから古河の地で細々と暮らしていた元の古河公方・足利義氏の娘・足利氏姫を見出し、足利頼純の嫡男・足利国朝と結婚させたのです。こうして宿敵仇敵同士だった古河公方家と小弓公方家は50年の時を経て一つにまとまったのでありました。
この新たに合一された喜連川(きつれがわ)公方家は江戸時代になっても諸駅参勤交代免除の別格な高家的存在として存続し、明治維新後は華族に列せられております。

また、”自称”公方シリーズには他にも堺公方・足利義維なんてのもいるのですが、いずれ機会があれば紹介してみたいものですね。

小弓城
〒260-0814 千葉県千葉市中央区南生実町


※2022年夏の旅にてのお話です。


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