壇ノ浦古戦場跡 〜関門海峡に想いをよせて〜 (2019.9.4)

源義経による三大源平合戦の最後の舞台となったのがこの関門海峡に位置する壇ノ浦です。
義経が兄・頼朝から平家追討の命令を受け、一の谷の戦いにて大胆不敵に華々しく平家を蹴散らしたのが1184年2月のこと。それからおおよそ1年後、1185年2月に屋島の戦いにてまたしても平家をフルボッコに叩きのめします。平家は瀬戸内海を西へ西へと逃れるのですが、屋島の敗戦からわずか1ヶ月後にこの壇ノ浦の地にて平家を追い詰め滅ぼしてしまったのでした。
こうして改めて義経の軌跡を見直してみると、なんと!義経はたったの1年ちょっとで平家を滅ぼしているのです(><) 徳川家康が豊臣家を滅ぼすのに要した時間が関ヶ原の戦いから実に15年だったことと比べてみると、いかに義経が神速の英雄だったことが分かるというものでしょう。

さて不詳エミールが史跡探訪の旅を始めたのが2009年。義経による三大源平合戦第一弾の舞台となった一の谷を訪れたのは2012年の夏のことです。それから第二弾の屋島を訪れたのは2018年・・・去年のことなので、一の谷の合戦から実に6年の月日が経過しておりました。
最初に源平合戦場巡りを始めてから足かけ7年・・・その間には頼朝挙兵の地・蛭ヶ小島から木曽義仲の倶梨伽羅峠などなど源平合戦ゆかりの地をあらかた巡りつくし、ついに辿り着いたこの源平合戦最終章の地・壇ノ浦です。


壇ノ浦SAをはっけん!

ってことでようやく来ることができた壇之浦!
まずは高速道路のSAの上から見下ろしてみたのですが・・・


狭っ!

関門海峡ってこんなに狭いんかー!ってのが第一の感想でしたね。
なるほどこれなら源氏方の和田義盛って武士が船に乗らずに沖から弓を行って武功をあげたって話も納得できましたわ。
それともう一つ、この壇ノ浦の戦いでは事前に義経が潮の流れを綿密に研究していたことが勝利に繋がったと言われておりますが、平家軍は壇ノ浦の潮流のことを知らなかったのでしょうか? よくよく考えてみるとすごく不思議っていうか変ですよね?
そもそも平家はもともと水軍を持っていて水戦が得意だったはずなのに、しかも壇ノ浦は最後の本拠地だったにも関わらずですよ? こんなことは実際この壇ノ浦に訪れるまで考えたことも無かったのですが、関門海峡をひっきり無しに通過して行くたくさんの船を眺めていたら、ふとそんなことが頭に浮かびました。


降りてきた壇ノ浦

さて壇ノ浦古戦場にはちょっとした公園があります。
と言っても壇ノ浦は海戦だったんで、実際に戦闘のあった場所の特定が容易だったんでしょうね。
今から1020年ほど前に、ほんとにほんとのこの目の前の海で源平最期の合戦があったと思うとほんと感動ものでした(><)


ここに安徳天皇と草薙の剣が沈んでいるのか・・・

壇ノ浦の戦いと言えば、安徳天皇が草薙の剣と共に海の底に沈んでいった話が知られていることと思います。
昨日の崇徳上皇も悲劇の人ですが、安徳天皇もそれに輪をかけてかわいそうな方ですよね・・・
もしもアタシが超お金持ちだったら、この海域に探索船を潜らせて草薙の剣と安徳天皇の遺品、後述する平知盛の碇を探し当てたいところです。


これはカッコいい☆

ここの壇ノ浦古戦場の公園には、こんなにカッコいい義経の八艘飛びの銅像と、これまた悲劇の最期を遂げた、碇を背負った平知盛の銅像が祭られております。
もっとも、義経の八艘飛びってのは、平家方の強い強い武士・能登教経にタイマン勝負を挑まれるも、怖くてビビって八艘の船のをピョンピョン飛んで逃げてった話なんで、そんなにカッコいい話では無いんですけどねw
それに対して、碇を背負った平知盛については、もはやこれまでと海に飛び込み自害するにあたり、絶対浮かび上がって来ないようにということで碇を背負って沈んで行ったというカッコいい最後の話です。
ちなみに、平家総帥・平宗盛も同じく海に飛び込んだのですが、プカプカ浮かんでいるところを捕えられてしまうというカッコ悪い最後を遂げておりますので、やはり知盛の判断は正しかったということになります。


でもなあ・・・

でもこうしてさも誇らしげに無双している義経も、そのわずか4年後には平知盛なみに悲惨な最期を遂げているのです・・・そう思うと、義経像の隣にあるのが知盛像だということに何か感慨深いものを感じますね。



壇ノ浦古戦場跡
下関市みもすそ川町21の1番


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