水原城・水原親憲 〜花見合戦の感状〜 (2016.3.27)

白鳥の瓢湖で有名な新潟県・水原町(現在は合併して阿賀野市)には、かつて水原親憲(すいばらちかのり)という大ふへん者が居しておりました。


江戸時代には代官所となっていた水原城跡

親憲はあの本庄繁長新発田重家と言ったトンパチ連中と同じ揚北衆の一員として、川中島の戦いを皮きりに御館の乱、長谷堂の戦いなどで多いに武功を挙げております。
戦にあっては鉄砲隊の指揮を得意とし、どのような劣勢下でも大声で味方を鼓舞するその姿は、あの軍神謙信から剛の者と認められ、長谷堂合戦ではあの前田慶次とともに殿を務めたというツワモノ中のツワモノ、それが水原の英雄・水原親憲なのです。


水原城とは関係ないですが江戸時代の越後府跡なんてのもありました。

でもこの水原親憲という武将・・・ぶっちゃけドマイナーですよね?(^^; かくいうアタシ自身もこの人のことを知ったのはほんの最近のことですし、信長の野望においてもそのパラメーターは武力統率ともに75程度で鉄砲・足軽属性がB程度という、そこそこ強いってレベルですから。


水原親憲ってどんな人? 観光案内所で分かるかな?

でもでもでも、この水原親憲という人の持つ1つのカッコいいエピソードを聞けば、きっと大ファンになるのではないかと思います☆


おおっ! 郷土の英雄扱いされているぞ(><)

水原親憲は1561年の第四次川中島合戦を皮切りに、毘沙門天の旗の下、上杉謙信の後に続いて数え切れぬくらいの戦場を駆けて来たという戦国スーパーエリートです。
そんな戦国生き字引とも言える親憲最後の戦は1615年の大坂冬の陣でした。時に親憲70歳。にもかかわらず、多くのイキのいい若武者を尻目に大活躍をし、なんと!将軍秀忠より直々に感状(表彰状みたいなものです)を受けるという栄誉を手にしたのです。


なんと! 親憲の同人誌とTシャツが売っていやがる!!

大坂の陣が起こったのは、戦国最後の戦とも呼べる関ヶ原の戦いから15年も後の話です。この当時は人生50年の時代ですから、川中島を知っている世代の殆どは死に絶えて、そこらにいる若武者たちは戦争を知らない世代です。


しかもこの同人誌カッコおもしろいしw

そんなヒヨッコばかりの軍中において親憲は、本物の戦場を知っている最後の世代だったと言っていいでしょう。

「此のたびの戦なぞまるで子供の石合戦のようなもので怖くもなんとも無かったわい。ワシは不識庵謙信公のもと、今日死ぬか明日死ぬかと必死の思いで戦い続けて来たが、感状なんぞ一度も貰ったことはない。それがこんな花見同然の合戦で感状を貰えるなんて片腹痛いわ。」

戦場のレジェンド生き字引と言ってもいい親憲は、このように言って大笑いしたそうです。


郷土の英雄に敬意を表する記念碑も

でもでもでも、これだけカッコいいエピソードを持つ水原親憲ですらロクロク名も知られていないってんですから、全盛期の越後上杉軍団マジ恐るべしです!
大坂の陣参戦全20万の大軍の中において、齢70にして将軍から直々に感状を貰うレベルのツワモノですら貰ったことないって、上杉軍団の感状レベルやばすぎるっしょ(><)それじゃあいったい本庄繁長や柿崎景家といったエースクラスってどんだけ鬼か化け物だったんすか(^^;

それにしても、アタシが最近この水原親憲って人のことを知ることが出来たのは、正に↑で紹介した同人誌を描いてくれたようなマニアな人たちのおかげなんですよね。このようにマイナー人物を掘り下げて紹介してくれる歴史研究家さんや普及活動屋さんには血染めの感状を送ってもまだ足りないくらいの感謝を申し上げたいですよ(><)
それからこの阿賀野市においてはこのように郷土の英雄のことを大きく取り扱ってくれていることも凄くうれしいですね。本庄繁長の村上市新発田重家の新発田市にも見習って欲しいものです。

水原城跡
新潟県阿賀野市 JR水原駅から徒歩15分 瓢湖となり


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