長谷堂城 〜もう一つの関ヶ原〜 (2012/9/1)

戦国時代の最終決戦・関ヶ原の戦いの発端は、故・太閤秀吉の遺命をことごとく破る家康の専横に物申した米沢の上杉景勝に対し、家康が逆切れイチャモンをつけたことに始まります。でもその肝心要の上杉景勝自身は関ヶ原の戦いには参加していなかったりします。ならそのとき景勝は何をしていたのかというと、腹心・直江兼続に命じて現在の山形市近辺に勢力を張っていた徳川方の大名・最上義光を攻めていたのです。
兼続は18000の軍勢を率いて出陣し、まずは最上領の前線基地・長谷堂城の攻略に取り掛かりました。この志村光安以下1000人の守る長谷堂城を落とせば、最上義光の本城・山形城は目の前です。多勢に無勢、長谷堂城はやすやす落ちるだろうと思いきや、城兵の奮戦によりなかなか城は落ちません。10倍以上の兵力差がありながらも兼続は長谷堂城を攻めあぐね、そうこうしているうちに兼続のもとに関ヶ原にて西軍敗れるの報が届き、兼続は長谷堂城の包囲を解いて退却して行ったのでした。
なお、このときの兼続に対する最上軍の追撃は執拗を極め、後世の語り草になる大激戦となり、あの前田慶次が殿(しんがり)として大活躍したとも言われております。10倍以上もの大軍を持ってしても長谷堂の小城一つ攻め落とせなかった直江兼続ですが、この撤退戦の見事な指揮ぶりにおいては、敵方の最上義光からも大絶賛されたのでした。


ようこそ長谷堂城へ

ってことでいざ訪れてみた長谷堂城なのですが、見晴らしのイイ場所に立つ小高い丘に建つという、よくあるパターンの平山城でした。


登りやすくてイイ☆

おそらくは3年ほど前に直江兼続の大河ドラマがあったときに整備されたのでしょう。本丸に続く山道はとてもよく整備されておりました。


解説看板がいっぱい

また、途中にはところどころ、このような遺構の解説看板がたくさん立っており、気持ちよくハイキングしながら楽しく戦国の城のことを知ることができます。


眺めもイイね☆

山道の傾斜はそれほどでもなく、こうして散歩するぶんには楽でイイけど防御力的にはどうかなと思うところです。でもそのぶん見晴らしがイイので、敵を狙い撃ちするにはイイのかななんてことを感じました。


山城と言えばこれw

はい、みんな大好き土塁ですw やっぱりこれを見ないと山城に来たという実感が沸きませんw


単純なれど強そう

なんとも原始的な柵ですが、いざ下から攻めて来てみたらこんなのがあって、尚且つ石落とされて鉄砲打たれて槍で突かれるんですから攻める方も大変ですよ。見晴らしのイイ丘のあっちこっちがこんな状態なんじゃあ、そりゃあ10倍の軍勢でも落とせないのは仕方ないなと納得させられますね。


本丸跡

はいいつものアレです。何もない、だがそれがいい。やっぱり山城の本丸跡はこうでなくてはいけません。


こんな戦がありました

実際に本丸跡から下界を見下ろしながら地図付き解説を読むのは本当に面白いです。へ〜兼続の陣所ってけっこう近くにあったんだな、こりゃあ本当に睨み合いって言えるわな。そんでもって上杉軍はこの斜面を登って来たのかそりゃあアッサリ狙い撃ちできるわな、だってこんなに見晴らしがイイんだもん。…なんて感じで実際の戦のイメージがふつふつと沸きあがって来ますからね。実際に激戦のあった山城の本丸跡から下界を見渡す…これぞ山城巡りの醍醐味ですよ。

さて次は、直江兼続をさんざ攻め倦ませ苦しめたこの長谷堂城を、兼続視点から眺めてみることにしましょう。


この場所で兼続が・・・

今じゃフツーに民家が建ってるニュータウンですが、こうして兼続陣所跡は今に至るまでもしっかりと伝承されております。


こうして見ると大したことないよなあ・・・

敵が篭っているのはあんなに小さな山で、尚且つこちらの軍勢は10倍以上。にも関わらず長谷堂城を落とすことが出来なかった兼続の悔しさは尋常では無かったでしょうね。
関ヶ原の合戦における西軍の敗報を受け取った兼続は、もはやこれまでと自害しようとしたところを前田慶次に説得されて思い止まったそうです。その時きっと兼続は、この場所からもう一度あの長谷堂城を見上げたことでしょう。そのときいったい兼続は、どんな顔をしていたんでしょうね。



長谷堂城
山形県上山市 国道348号線沿い



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