大垣城 〜関ヶ原の西軍大本営〜 (2020.1.11)

今日は前々からいつか行ってみようと機会を窺っていた大垣城に行って来ました。
と言うのはここ最近、以前に撮りだめしておいたBSプレミアム「英雄たちの選択」を見始めたのですが、そのうちの2本の主人公が、島左近と大谷吉継だったんです。
この二人がいったいどういう人物なのかの説明は不要ですね。言わずと知れた関ヶ原の戦いにおける超重要人物です。という訳でこの二人の特集=関ヶ原の戦い特集のようなものになり、その中でも更に、やたらとこの大垣城のことがクローズアップされていたのですよ。


大垣城ってどんなお城?

いえいえもちろん、アタシも歴史オタのはしくれとして、この大垣城の、関ヶ原の戦いにおける役割と重要性というのは知っておりました。思いっきり簡単に説明すると、もともと三成は1600年9月に起こった天下分け目の大決戦を、現在の岐阜市の隣・大垣市にある大垣城と、岐阜市の岐阜城、名古屋の清州城で防衛ラインを引いて、江戸から大坂に西上してくる東軍(家康軍)を迎え撃とうとしていたという話です。


ここで迎え撃つぞ!

でもそこはなにぶん刻一刻と状況が移り変わる戦場でのこと。しかも相手は野戦においては当時日本最強だったと言っても過言では無い徳川家康が総大将なのです。結局、紆余曲折ののち三成の目論見は外れることとなり、大垣城を出て関ヶ原に布陣することとなりました。その後の展開は皆さんご存じのことかと思います。


あの向こうに見えるは南宮山

という訳でこの大垣城、開戦の直前まで、西軍の中枢部たる石田三成、島左近、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘らが籠城し、打倒家康のための軍議をこらしていたという場所なのですよ。なので、「歴史上の事件があった場所に赴き、そこに関わった人物たちの想いを感じて来る」というエミールの史跡探訪コンセプトに正にピッタリではありませんか。
にも関わらずなぜ大垣城攻略作戦が今日まで引き延ばされていたのかと言えば、なんのことはありません。たんに行き惜しみしていただけの話です。いつかアタシの中の大垣城熱が高まって大垣城に行きたい行きたい!と思った時が大垣城を攻略するときだと思い続け、ついこないだ関ヶ原に行って来た1ヶ月後にテレビで大垣城を2連発で特集したこの時こそが大垣城に行く時だ! そう思いいやはせ参じた大垣城だったのですが・・・


関ヶ原の展示物はこんなもの

・・・大して面白くありませんでした(^^;
うーんなんでだろ? まず最初にアタシの関ヶ原気分を打ち砕いてくれたのがこの人です。


あなたはだあれ?

大垣城入口近くで何やら戦国武将のかっちょええ像を見つけ、おおっ!これは三成か左近か!?と思って近づいてみたら、そのネームプレートに書いてあった名前は戸田氏鉄・美濃大垣藩初代藩主とのことです。
まあ戸田氏鉄さんは氏鉄さんで立派な方なんでしょうけれど、アタシのお目当てはあくまで関ヶ原の戦いの司令塔であった大垣城であって、江戸時代の政庁だった大垣城では無いんですよね(><)
それから先は上から貼って行った写真のとおり、城の作りはバリバリの江戸時代仕様だし本丸跡からの眺めもそれっぽくないし城の中の展示物も関ヶ原よりも戸田氏のことを重視しているようでして、以前に訪れた小山軍議の場所のような関ヶ原軍議感を味わうことはぜんぜん出来ませんでした(^^;


まあこれはこれで

それでも大垣城が平山城ではなくてガチガチの平城で、大して強い城では無いことが分かったのはちょっとした収穫でした。なるほどこれなら、かつての通説だった西軍は大垣城に籠城するつもりだったという説が崩れ、最近はもともと西軍は関ヶ原に布陣するつもりだった説が有力になったというのも頷けます。
また、大垣城から関ヶ原までの距離感世界観を実地に体験したことによって、これからは関ヶ原関連の本やテレビの理解度がより一層深まるのではないかと思いますしね。
それからこの大垣城に来ることが無かったら、アタシはおそらく戸田氏鉄さんの名前を一生知ることは無かったでしょうw


大垣城
岐阜県大垣市


◆◇◆ お便り感想♪お待ちしております(^^) ◆◇◆


戻る

inserted by FC2 system