小山評定 〜水面下の関ヶ原〜 (2015.7.25)

天下分け目の関ヶ原の合戦を遡ること1ヶ月と20日の1600年7月25日…豊臣秀吉亡き後、次の天下人にならんとの野望に燃える徳川家康が、その手に天下を掴もうと一世一代の大勝負を掛けたのは、下野国の小山の地においてのことでした。


これより皆に大事な話を始める

家康:
「皆の者、我らが上杉征伐のために大阪の地を空けた隙をついて、石田三成が兵を挙げよったわい。このまま会津に向かっては、三成と上杉の挟み撃ちにあってしまう故、わしは大阪に引き返して三成に決戦を挑もうと思う。
…が、皆の中には大阪には妻子を残している者もあるであろう。もしそれが人質に取られてしまったのでは三成相手に戦うことは出来まい。
それに三成は秀頼様のために、天下簒奪を企む家康を倒す戦いだと言っておる。秀頼様への忠義という点ではもちろんわしも一緒だが、皆の中には三成の方を信じたいと言う者がいても、これまた仕方のないことであろう…
ということで、もし三成の味方になるために大阪に戻ろうという者がいてもわしは決して止めもしなければ恨むことも無い。皆がそれぞれ秀頼様のために正しいと思った行動をしようではないか。」

このとき家康は、福島正則、黒田長政、山内一豊などといった豊臣恩顧の大名を率いて、上洛命令に叛いた会津の上杉景勝を討つために出陣しているところでした。
そもそもなぜ上杉征伐などという話になったのかと言えば、亡秀吉の遺命にことごとく逆らう家康の専横を糾弾した上杉景勝の軍師・直江兼続の出した直江状に対する家康の逆ギレだったことだし、もちろん今回の上杉征伐に参加した諸大名にしても皆、家康の野望には薄々と気付いているところであります。
ということは、このように会津の上杉景勝と大阪の石田三成が下野小山の家康を挟み撃ちにすれば、家康を討ちとる大チャンスです。増してや今回の遠征には豊臣家には絶対の忠誠を誓う豊臣恩顧の大名が多数参加しているのです。
そんな絶体絶命とも言える状況下において、家康は江戸と会津のちょうど中間地点くらいにある小山の地において軍議を開き、こんな爆弾発言をカマしたのです。
どうぞ自分を討ってくれと言わんばかりのこの発言、家康はなんとも大ばくちを打ったものではありませんか。一歩間違えば家康の人生終了、でもこの大勝負に勝つことが出来れば家康の天下が定まると決まっても過言ではないこの状況で、はたして豊臣恩顧の大名はどうでたのかと言えば…

福島正則:
「俺は内府(家康)に味方するぜ! お淀の方と秀頼様におべんちゃらを使いまくってヘラヘラ天下人ヅラしている三成のヤローをぶっ潰してやりましょう!」

なんと!秀吉子飼いの豊臣恩顧of豊臣恩顧大名と言っても過言ではない福島正則が真っ先に家康ポチ宣言です! さらに…

山内一豊:
「私は大阪に戻る途中にある私の居城・掛川城を内府に寄付させていただきます! 三成征伐のためにどうぞご自由に使ってください!」

これまた秀吉の側近中の側近だった山内一豊までこんなことを言いだしてしまいます。これで場の空気は完全に決まってしまいました。

参加者のほとんど:
「オレらみんな内府について行きますぞ!」

こうして見事一世一代の大ばくちに勝った家康は、天下人に向けて大きく前進したのでありました。
家康の天下が決定したのは関ヶ原の合戦ですが、その関ヶ原の合戦の勝敗は事実上ここで決していたと言っても過言ではありません。そもそもこの小山の地において豊臣恩顧の大名を完全に味方につけることが出来たからこそ、家康は関ヶ原の合戦に挑む決意が出来たのですから。


家康が戦勝を祈った須賀神社

もちろん家康も、突然いきなしこんな大勝負をした訳ではありません。そもそも上杉討伐の出陣前から三成と福島正則らの対立を煽っておりましたし、大名本人のみならず、その奥さんにまで付け届けや手紙をかかしてはおりませんでした。
そうして三成から人心を離して自分の評判を高め、トドメのこの小山軍議においても実のところ、口火を切った福島正則に対しては、黒田長政を通じて事前にしっかり根回しをしておいたのでありました。

とは言ったものの、やはり土壇場では一体何が起こるかは分かりません。いくら事前の約束を取り付けたと言っても、福島正則が心変わりする可能性は十分にありますし、そもそも最初から家康をハメようと動いていたということもありえました。
家康とて決して万全の体制で評定に臨んでいた訳ではありません。正に薄氷を踏む思いだったことでしょう。
またそれとは逆に、山内一豊の城明け渡し宣言は、まさに瓢箪から駒の嬉しすぎる誤算でした。家康のこの清水の舞台から飛び降りる覚悟があったればこそ、山内発言という大勝利を呼び込むことが出来たのです。


小山市役所内にある小山評定の碑

アタシは日本史上の英雄たちが激戦を繰り広げた古戦場を巡るのが大好きです。かつてこの地で天下分け目の軍議が行われたというこの小山市役所&須賀神社。刀剣も交わらなかったどころか激論舌戦も行われなかったこの小山軍議跡地ですが、これまた紛れもなく、徳川家康が我こそ天下人たらんと死力を尽くして戦った大激戦地と言えるでしょう。


小山軍議跡地
小山市役所および近くの須賀神社


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