鉢形城 〜戦国の開幕と終焉と、それを彩る大遺構〜 (2020.11.28)

戦国時代と言えば下克上です。そんでもって東国における下克上と言えば北条早雲と上杉謙信の父・長尾為景が代表例かと思います。ではなぜこの二人が"下克上"と呼ばれるかと言えば、関東地方における名門氏族・上杉氏を押しのけて大名になったからです。
もっともこの戦国関東下克上of下克上の両名ですが、全盛期の上杉氏を倒して大名にのし上がったという訳ではありません。その前段に、関東の覇王一族・上杉一門を相手に下克上を挑み、そして手負いに追い込んだ長尾景春という人物がいたのです。この先駆的下克上、「長尾景春の乱」があったればこそ、北条早雲と長尾為景は上杉氏の領土を掠め取ることができたのでありました。
ってことで今回は関東を騒乱の嵐に巻き込んだ長尾景春の居した武蔵(埼玉県)の鉢形城へ出撃して来ました。


関東騒乱台風の目城

ところで戦国最強の軍神として名高い上杉謙信ですが、その血統は関東管領の名門・上杉氏の出ではなく、もともとは長尾氏の出身で長尾景虎だったのが、当時の関東管領・上杉憲政の養子となって上杉家の家督を継いだということはよく知られていることかと思います。


よく整備されてるなあ

また、もう少し突っ込んだ話をすると、この関東管領の名門・上杉氏にも山内上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏があり、戦国時代の初期にはどちらの上杉が上杉of上杉なのかと言った感じの勢力争いをしておりました。さらにマニアックな話をすれば、扇谷上杉氏と山内上杉氏の他にも犬懸上杉氏とか深谷上杉氏なんてのもいて、一口に上杉氏と言ってもそう簡単なものではないのです。


土塁キターーー

まあ上杉氏に色んな分家があってワラワラしているのは分かります。なんにせ初代室町幕府将軍・足利尊氏の母の実家にして、代々関東管領の名門をやってるような一族ですからね。
ですがさすがに謙信の出身である長尾氏までもが分家分家で争っていたということまで知っている人は少ないのではないでしょうか? そんなことはとっくにご存じという方は、なかなかな戦国通なのではないかと思います。


空堀跡もきれいに残ってます

長尾氏は代々山内上杉家の重臣を務める一族で、上杉家の家宰や上杉家領国の守護代を努めていたのですが、この長尾氏もまた、謙信の出身である府中長尾をはじめ、上田長尾やら総社長尾、白井長尾などなど色んな長尾氏がいて、誰がナンバー1長尾かみたいな勢力争いをしていたのです。

※家宰とは筆頭家老のようなもの。
守護代とは守護に代わって実際に国を治める総代官のようなもの。
守護とは1国の主を務める室町幕府の正式役職。実際の守護は上杉や細川、斯波と言った名門家が複数国の守護を兼ねるうえに京都や鎌倉府に在中することが多かったため、守護代が必要だった。

さて前置きが長くなってしまいましたが、ここでようやく今日のお話の主人公・長尾景春の登場です。景春は上杉家家宰を務めていた父が死んで白井長尾家を継いだ際に、自分が父と同様に山内上杉家の家宰になれると思っていたのですが、総社長尾の忠景という人物が山内上杉家家宰になったことに不満を抱いて反乱を起こします。


後の城主・藤田氏邦を偲んだ大桜

最も、上杉家家宰の地位はもともと総社長尾と白井長尾、その他もろもろ長尾氏の間でたらい回されていたため、父が家宰だったからと言って必ずしもその子が跡を継げる訳では無かったのですが・・・
ともあれ、この景春の反乱を機に、景春と似たような感じで自分の地位に不満を抱いていた連中がその流れに乗り、関東一円を巻き込む大騒乱に発展したのです。
この長尾景春の乱のことを細かく解説するとキリがないうえに調べれば調べるほど訳が分からなくなるので要点をかいつまんで説明すると、

・景春の白井長尾派と山内上杉家宰となった総社長尾の景信派の抗争が始まる。

・その抗争を鎮圧した扇谷上杉家家宰の太田道灌が勢力をのばす。

・その太田道灌の勢いに恐れを抱いた扇谷上杉定正が道灌を殺す。

・扇谷上杉定正は道灌のおかげで幅を利かしており、そのことを山内上杉顕定は苦々しく思っていたのだが、道灌が死んだことを好機とばかりに扇谷上杉との抗争を始める。

・そのドサクサにまぎれて北条早雲が伊豆相模に勢力を伸ばす。

・結果として山内上杉家・扇谷上杉家、双方の権勢がガタ落ちした。

ざっとこんな感じです。
まあ要するに、もともと関東の武士たちの間に燻っていた火ダネがあったのが、長尾景春のおかげで再々燃焼したというのがこの長尾景春の乱のあらましです。・・・って今サラっと「再々」燃焼と書きましたが、この長尾景春の乱の前には京都の将軍と関東公方が争った永享の乱、その再燃火事と言える足利成氏を中心とした享徳の乱というものがあり、長尾景春の乱はその流れを汲んだ三次災害なのですよ。


これはきれいな遺構だ

今ほど長尾景春の乱の歴史的影響及び意義を書いたところですが、では肝心の長尾景春自身はどうなったのかと言えば、3年あまりの籠城戦のすえ太田道灌の手によりこの鉢形城は落城します。


でも落ちちゃったんだね

城を追われた長尾景春は足利成氏、扇谷上杉定正のもとを転々としながらしぶとく生き延び失地奪還を謀るも、色々あって結局は元の主君である山内上杉顕定に降伏することとなりました。
しかしそこは戦国下克上の雄・長尾景春のことです。顕定が越後で起こった別な長尾一族の雄・上杉謙信の父である長尾為景の反乱の鎮圧に向かった隙をつき、伊豆相模の北条早雲と呼応して再び反乱を起こします。結果、長尾為景は上杉顕定に勝利して越後の大名となり、北条早雲もまた関東地方に勢力を伸ばして行ったのでした。


何も無い・・・けど広い!本丸跡

一方、当の景春はと言えば、顕定の息子との戦いに敗れて駿河の今川氏のもとに亡命し、そのまま亡くなったものと見られているのですから面白いものです。
関東全体を巻き込む大騒動を引き起こしておきながら、だからと言って本人が栄華権力を手に入れたのかと言えば全然そんなことも無く、お尋ね者になった割には最後はちゃっかり畳の上で死んでいるという。いはやはなんとも波瀾万丈おもしろい人生を歩んだものです長尾景春さん。


背後は荒川という要害の平山城だったんですね


なお、北条早雲は、景春のことを「武略・知略に優れた勇士」と評しているところです。
長尾為景のコメントは残っていないところでありますが、きっと関東の大木・上杉氏に綻び楔を打ち込んでくれた下克上パイオニアとして、景春に対して深い感謝の念を抱いているのではないでしょうかね。


長尾景春の鉢形城

ともあれ、この長尾景春がいなければ、戦国時代の関東の勢力図は全く違ったものになっていたことでしょう。もし長尾景春が動かなれば、長尾為景が大名となることはないから謙信が上杉家を継ぐこともなく川中島の戦いは起こらず、北条早雲は上杉の壁を破ることができず、北条氏康や氏政が関東に覇を唱えることも無かったことと思われます。
と言う訳で、我々が歴史書を紐解いて武田・上杉・北条・今川による関東戦国史に胸躍らせることができているのは全て長尾景春のおかげと言っても過言ではありません。もし長尾景春の乱が無かったら・・・戦国最強武将や軍神の座は、誰のものになっていたのでしょうかね?


鉢形城
埼玉県大里郡寄居町鉢形2496の2

てな感じでアタシ的には今回の鉢形城遠征は、長尾景春を偲ぶ城攻略のつもりだったのですが・・・


うおっ!なんじゃこりゃああ!!!!

何もない、だがそれがいいって感じに荒廃した本丸跡の向こう側に降りてみたら、こんな凄い再現遺構があるじゃないですか(><)


こんな石垣土塁もあったのか!

実はこの鉢形城、その後は上杉顕定の手を経て北条氏の城となり、最終的には北条氏政の弟にして猛将優将の藤田氏邦が大改修を加え、武蔵の一大拠点城となっていたのです。


これが三の丸だってんだからすごいぜ(><)

いやアタシももちろん、この鉢形城が松井田城八王子城と同じく、小田原征伐において前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの戦国オールスターズとの間で激戦が繰り広げた巨大城郭だったということは知っておりました。でもまさか、ここまで綺麗な遺構が残っているとは思っていなかったので、攻略主目標は長尾景春だった訳なのですよ。


この土塁&空堀&逆茂木は芸術品だな

あちこちにある解説看板を読んでみたところ、この鉢形城跡は見ての通り遺構がたくさん残っているうえに発掘作業もはかどっていて、北条流築城術の結晶のような滅茶苦茶貴重な城跡だということが分かりました。


此度の遠征、大儀であった!

ってことでこの鉢形城跡公園、戦国時代の城の構造様相がひじょ〜〜〜〜によく分かって超超おもしろかったです☆
戦国マニア城オタのみならずとも、見所いっぱいなるほど凄い!と思えること間違いありません☆
・・・ってふと思ったのですがこの鉢形城、戦国黎明期に起こった乱の主戦場であると同時に、戦国最後の大戦の舞台でもあったのです。
そう考えると改めて、この鉢形城は戦国の最初と最後を飾る貴重な戦国遺構ですね。


お昼ごはんは上野・下仁田のカフェにて


おやつは上州名物のこんにゃく☆



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