興国寺城 〜一体何者?北条早雲〜 (2020.6.27)

アタシは北条早雲という戦国大名のことが大好きです。
アタシが北条早雲ファンとなったのは、学研まんが人物日本史シリーズ北条早雲を愛読していたことによるものなのですが、本書によれば北条早雲とはもともと、どこの馬の骨とも知らぬ素浪人だったという・・・それが自分の妹が駿河の大名・今川義忠の側室だったという縁から今川家の客分となり、その後今川家で起こったお家騒動を見事に解決した功によって興国寺城を与えられて戦国大名としての一歩を踏み出したということが書かれておりました。


伊豆半島の付け根の要衝

さてこの今川家のお家騒動がどういうものだったかと言うと・・・今川家の当主にして早雲の妹の旦那・義忠が隣国との戦にて討ち死にを遂げるという悲劇に見舞われます。この時点における今川家の相続権は早雲の妹の子・龍王丸が握っていたのですが、いかんせんまだ5才の子供です。
そんな幼子が当主では頼りにならん!とうことで義忠の従兄弟の小鹿範満なる人物が突如今川家の家督相続レースに名乗りをあげ、今川家中が真っ二つに割れることになったのです。
過去に幾度となく書いているところでありますが、お家騒動ほど始末におけないものはありません。当事者同士どっちが勝つか負けるかはもちろん、家臣にしてみても勝ち馬に乗ったか負け組に回ったかでその後の一族郎党の運命天国地獄が決まるのです。ましてや今回のお家騒動の舞台は室町幕府副将軍の資格を持つとも言われる名門中の名門・今川家なのです。今川家の家臣団のみならず、幕府本体や関東管領をも巻き込んだ大騒乱に発展しかけていたところを見事解決したのが北条早雲だったのでした。


戦国時代はこの城から始まった

ってことで今回訪れたのはその戦国下克上物語幕開けの舞台となった興国寺城です。
この興国寺城は駿河と伊豆のちょうど境目くらいに位置し、富士山と駿河湾の間の狭い平地を見下ろす小高い丘の上に立っております。


ジャンルとしては平山城になるのかな?

この駿河湾と富士山の間の平地はほんの5kmくらいの幅しか無く、実際に訪れて見てこの興国寺城は東海道の付け根の実に重要な位置の抑えだということがよく分かりました。


石垣もイイけれど・・・

城の規模としては国衆レベルの城ですし、なんでこんなに(略というほどの険しい山城ではありませんでしたが、なかなかイイ感じに急峻な斜面の上に作られており、まずまずの防御力を誇っていたのではないかと思われます。


やっぱ土塁だね☆

早雲はのちにもう少し伊豆寄りに位置する韮山城に本拠地を遷すことになります。
というのも興国寺城の立地が伊豆、駿河、甲斐のちょうど国境付近というあまりに火薬庫のド真ん中に位置しすぎていたからなのではないかと思われます。


小じんまり感満載の天守台跡

ってことで興国寺城はその後、今川、北条、武田という関東三大大名の間で目まぐるしく城主が入れ替わり立ち代わったようです。


本丸跡からは駿河湾まで望めます

最後の城主は徳川三奉行の一人、どちへんなしの三郎兵衛と呼ばれた天野康景が務め、関ヶ原の合戦後は廃城となってしまいました。


この空堀はなかなかすごいぞ

ところでアタシが学研まんが人物日本史シリーズ北条早雲に出会った1985年頃までは、北条早雲の出目は素浪人だったという説が幅を利かせておりました。それが研究が進むにつれて、北条早雲とは室町幕府の高級官僚・伊勢氏の一族であり、九代将軍足利義尚の側近だったいうことが判明します。また、同書においてもともとの名は「伊勢新九郎長氏」と書いてあったのが、実は伊勢盛時というのが正しい名乗りだったということもほぼ確定しております。
前述のお家騒動にしても、同書においては早雲が今川家に客分として迎え入れられた後に起こったことと書いてありました。でも実際には今川家のお家騒動が起こったあとに、その調停役として早雲が幕府から派遣されてきたという説が有力となっております。



このマンガの新九郎様はカッコよかった☆

アタシが北条早雲ファンとなったのは、なんと言っても徒手空拳の身分から戦国大名にのしあがったというのがカッコ良かったからです。でもそれが、実は素浪人でも何でもないエリート武士の一族だったのというのですから幻滅してしまったのかと言えば、それがそうでも無かったりします。
なぜなら、高貴な身分の武士だからと言って簡単に一国一城の主になれるほど戦国時代は甘くないですし、そもそもその当の伊勢氏自体が戦国期には完全に没落してしまっている訳ですからね。伊勢氏に限らず、細川斯波畠山の三管領家に佐々木氏、土岐氏、一色氏、山名氏などなど、室町を彩った名門名家の殆どが下克上の激流に飲み込まれて消え去っているところであります。
という訳で、いかにその出身が名門一族だったとは言え、己が実力一辺倒で戦国大名にのし上がったというのは物凄いことなのですよ。


北条早雲はこの城から何処へ?

さて一介の客分武士から一城を任される国衆にランクアップした早雲のその後の話につきましては、いつかまた書く機会があるかと思いますので、そのときをお待ち頂けたらと思います。
とりあえず今のところは北条早雲の最終的な本拠地となった韮山城の記事と最後の戦いとなった新井城の巻がアップされているところですので、お楽しみ頂けたら幸いです。

あとどーでもイイ話ですが、この一般的に「北条早雲」と呼ばれているこの人物ですが、生前に北条早雲などとは呼ばれたことも名乗ったことも一度もありませんw
そもそもいわゆる後北条氏が北条を名乗ったのは2代目氏綱の代からであって、伊勢盛時の名字はあくまで伊勢氏なのですよ。
また、この早雲という名についても、盛時の出家後の法号が早雲庵宗瑞だったことからそう呼ばれているという話であり、これもまた変な呼び方なのですよ。
同じような名前の呼び方の例として、上杉謙信の話をしてみます。実はこの人物の正式な名前としては、上杉輝虎というのが正しいのです。(もっと細かい話をすると、おそらくは藤原朝臣上杉平三輝虎が正しいのではないかと思いますが)
ならこの"謙信"というのは何なのかと言えば、輝虎の出家後の法号・不識庵謙信の略称なのですよ。ってことでこの法則?を北条早雲に当てはめてみると、北条宗瑞と呼ぶ方が正しいように思えます。(なおこの法則?を逆に適用すると、上杉謙信は上杉不識になりますw)また、さらに言わせてもらうなら、宗瑞自体は北条氏を名乗ってはいないので、伊勢宗瑞と呼ぶのがいちばんしっくり来ると思うのですが、北条早雲はなぜか北条早雲なんですよね。
まあ確かに、そもそもこの人物の名が盛時だと判明したのもせいぜいここ20年くらいの話ですので、それ以前の伊勢盛時の呼び名候補を並べてみると・・・

伊勢長氏
伊勢新九郎
伊勢宗瑞
伊勢早雲
北条長氏
北条新九郎
北条宗瑞
北条早雲

アタシ的には伊勢新九郎も捨てがたいですが、やっぱり北条早雲ってのが一番カッコいい感じがしますね☆ 
あと更にどーでもイイ話をさせて貰いますと、アタシは真田幸村のことをかたくなに真田信繁と呼ぶ人を見たことがあっても、北条早雲の呼び方にイチャモンをつけている人を見たことはありませんw


興国寺城
静岡県沼津市根古屋428


※興国寺城に来る途中にすんごくきれいなお茶畑がありました☆


※そんでもって城歩きのあとは沼津港でマグロしらす二色丼を食べました(^^)



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