安芸備後出雲播磨出征譚 (2016年9月25〜28日)その1

毎年恒例の夏休み旅行なのですが、今年は去年計画して途中雨降って挫折した宮島出征作戦を今度こそは!と↓のとおり去年の計画をちょっと軌道修正してみました。

1日目:
山中鹿之助の上月城 → 新田義貞タジタジの白旗城 → 赤穂浪士の赤穂城
2日目:
いろは丸事件のあった鞆の浦 → 軍艦の聖地・呉
3日目:
厳島の戦いのあった厳島 → 毛利元就の吉田郡山城 → あの世の入口・黄泉比良坂

それがなんと!またしても当初予定していた19〜22日に台風直撃してしまい、やむを得ず25〜28に日程変更してみたものの、これまた天気予報では終日降水確率50%曇りって感じの微妙さだったのですよ(><)
でもでもそれでも、己が運勢を信じて出撃してみたところ、うまいこと雨の合間を縫ってとてもイイ旅をしてくることが出来ました☆ ではでは以下、その様子をごゆるりお楽しみください☆


9月25日


上月城 〜七難八苦の忠義の臣〜

かつて中国地方には、尼子氏という大大名が幅を利かしておりました。
尼子氏は謀聖と呼ばれた尼子経久の手により、最盛出雲の月山富田城を拠点に、最盛期100万石くらいの勢力を誇っておりました。でもその尼子氏もレジェンド武将・経久の死後は安芸の謀神・毛利元就の手によりその版図を削られて行き、ついに1566年に月山富田城は陥落、尼子氏は当主・尼子義久を出家させられ事実上の滅亡に追い込まれてしまいました。

謀聖・経久の嗣を継いだ晴久、その子の義久は今ひとつな人物でしたが、その配下には山中鹿之介という大忠臣がおりました。鹿之介は尼子一族の遺児・勝久をかつぎ、尼子氏の遺臣を集め、反毛利のゲリラ戦を展開します。

とは言ったものの相手は山陰山陽8カ国近くを有する上に、毛利元就のほかに吉川元春、小早川隆景という戦国屈指の名将揃いです。鹿之介は兵を挙げる度にすぐさま鎮圧されてしまいます。それでも毛利軍は鹿之介の反乱にはほとほと手を焼き、敵ながらアッパレなヤツと一目置いておりました。

そんな鹿之介に朗報が届きます。東からやって来た織田信長の軍勢が力を貸してくれるというのです。もっとも信長にしてみれば尼子氏の再興のことなどはどうでもよく、たんに自らの敵である毛利を倒すのに鹿之介を利用するに過ぎません。ならばこっちも信長を利用してやろうと鹿之介と信長の利害は一致し、鹿之介は織田軍より上月城を預かり、毛利に対抗することになりました。


ねんがんの城を手にいれたぞ!

上月城はちょうど織田と毛利の勢力範囲の中間・播磨と美作の境目くらいにある山城です。
もっとも織田軍が自前で使うことをせず、敵の敵は味方程度の鹿之介に与えたというレベルですからそこまで強力な城という訳ではありません。


何でこんなに(略というほどではありませんでした。

それでも鹿之介は上月城に毛利軍を引き付けて奮戦します。手勢2000で毛利軍20000を相手にしても全く引けを取ることはありませんでした。


曲輪も長細いですね

ある日、織田軍の後詰を期待して絶賛奮戦中の上月城に、トンでもない知らせが舞い込みます。


二の丸から見上げた本丸土塁

なんと!上月城のはるか手前にある織田軍の重要な拠点で反乱の火の手があがってしまったから上月城への後詰が出来なくなったなどというのです!
反乱の主の名は別所長治。この三木城の反乱を鎮圧しなければ、織田軍にとっての播磨全体の戦局が脅かされてしまいます。
こうなっては是非もなし・・・上月城は捨て駒にされる運命になってしまったのです。


絶望の本丸跡

織田の援軍は来ないとみて、毛利軍はいよいよカサにかかって上月城に攻め寄せます。それでも鹿之介は持ち前の気合と根性でなんとか城を支えます。


織田軍は来ないのか・・・

いかに鹿之介が武勇と知略を持ってしても、兵糧のことだけはどうにもなりません。ついに上月城は開場し、尼子一族は切腹、鹿之介も殺されてしまい、尼子氏再興の道は完全に絶たれてしまったのでありました。


鹿之介は立派に戦い抜きました

さて殺されてしまった鹿之介ですが、その不屈の精神と行動力は、敵からも味方からも賞賛されておりました。尼子家再興のために「我に七難八苦を与えたまえ」と神に祈ったという山中鹿之介の生涯は、比類なき忠義の士の物語として今も語り継がれています。


城下の上月歴史資料館にて


上月城
兵庫県佐用郡佐用町


白旗城 〜南北朝の隠れ英傑〜

播磨国・白旗城は、かつて赤松円心則村入道が拠点としていた山城です。
でもだから言って、まさか街道沿いに赤松円心の里などという看板まで立っているとは思いませんでしたw


播磨の英雄?

さてこの赤松円心という人が何者かと言いますと、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に力を貸して大活躍したものの、その後に後醍醐天皇が行った戦後処理においてむしろ逆に領土を取り上げられそうになり、後醍醐天皇の建武の新政に愛想を尽かしてしまったという人物です。
その後は足利尊氏に協力して後醍醐天皇の南朝に敵対することになるのですが、その対南朝戦において重要な役割を果たしたのがこの白旗城なのです。


当時の播磨の中心地?

詳しくは後醍醐天皇物語を読んで頂けたらと思いますが、足利尊氏が京都での南朝での戦に破れ、再起をかけて九州に敗走して行ったときの話です。その尊氏を南朝軍の新田義貞が追撃したのですが、その追撃途中で赤松円心が新田義貞の軍勢を白旗城に引き付けることに成功します。
南朝軍からすれば、尊氏さえ倒してしまえば北朝軍はゲームセットになると言っても過言ではありません。だったら白旗城なんて放っておいて尊氏を追っていればいいものを、義貞はなぜかこの白旗城攻めに固執してしまい、結局尊氏を取り逃がしてしまったのでありました。


なぜそこまでして攻める?

白旗城は、実際に行ってみて分かったのですが、街道からは思いっきり外れたところにありました。しかもこのとおり、放っておいても特に問題なさげな小さな山城です。でもなればこそ、義貞はアタシと同じくこの白旗城を下から見上げ、この程度の城ならアッサリ落とせるだろうってタカをくくっちゃったのでしょうかね?
結局義貞は、白旗城を攻め落とすことが出来なかったうえ、尊氏に完全に再起の機会を与えてしまうことになったのです。
また、赤松円心こそが、後醍醐天皇に対抗するために、かつて鎌倉幕府が擁立した光巌上皇を利用することを考えた人物とも言われております。
尊氏一世一代のピンチを助け、奇跡の政略を考えた赤松円心こそが、もしかしたら室町幕府設立の一番の功労者なのかもしれません。


白旗城
兵庫県赤穂郡上郡町


赤穂城 〜元禄の戦場跡〜

赤穂城はその名のとおり、忠臣蔵で有名な赤穂藩のお城です。


大変だ大変だ!

1701年3月19日のこと、赤穂城に江戸からの早馬がつきました。


大石内蔵助の屋敷跡

城代家老である大石内蔵助がいったい何事かとその知らせ文を開いてみると・・・
なんと!去る3月14日、主君・浅野内匠頭が江戸城殿中で吉良上野介に斬りかかるという事件を起こし、即日切腹・赤穂藩の取り潰しを申し付けられたというではありませんか!!


揺れる城内・・・

1週間後、大石は全藩士に登城を命じて今後のことを協議します。
もっとも協議も何も、こうなった以上、藩士はみな城を出て、今後の身の振り方を考えるしかないのですが、藩士の中には幕府の処分に納得行かない者も多々ありました。


そんなお城で大丈夫か?

「殿には切腹を申しつけながら、吉良を生かしておく幕府の仕打ちに納得できぬ! 断じて城を明け渡してなるものか!!」

そのように息をまき、籠城の覚悟を決める者がいれば、

「こうなったら、我ら家臣一同全員で切腹して幕府に抗議の意を示すしかあるまい・・・」

などという意見までも出ます。
また、赤穂城の混乱は赤穂藩家臣一同だけの問題ではありません。

「藩が取り潰されてしまったら、今までのツケや借金はどうなるんだ!!」

そんな心配をする商人たちまで押し寄せてくる有様です。


すったもんだがありました・・・

大石はまずは商人たちへの借金を清算し、過激なことをいう家臣たちのこともなんとか説得して幕府に城を明け渡すことを決定します。

「内匠頭様には弟の大学長広様がおられる。我らがおとなしく城の明け渡しに応じなければ長広様に迷惑がかかる。今我らに出来ることは、長広様を新たな藩主に抱いてのお家再興の嘆願をすることなのではないか?」

そのように言われては過激派たちも黙るしかありません。


さらば赤穂城

こうして赤穂事件から1月が経過した4月18日に赤穂城は幕府に引き渡されたのでありました。


大石の戦いはこれから始まる・・・

こうして赤穂城内の混乱は抑えたものの、赤穂藩というか江戸時代の藩というものは、地元の藩士のほかに江戸詰めの家臣というものがおります。江戸詰めの家臣には浅野内匠頭直参の子飼いの者が多く、そう言った者たちの忠誠の対象は、赤穂"藩"ではなく、浅野内匠頭個人に対するものなのです。
そんな江戸急進派たちにしてみれば、大学長広を立ててのお家再興などはどうでもよく、内匠頭個人の恨みを晴らすことこそが重要だったのです。
お家再興を目指す大石たちにとっては、このような江戸急進派の行動はハッキリ言って迷惑千番極まりないものであることは言うまでもありません。最初はそんな江戸急進派をなんとか抑えようとした大石でしたが、やがて大学長広の蟄居が決まり浅野家再興への道が絶たれると同時に、吉良上野介を討つことを決意したのです。

一度は幕府を相手に一戦を交えることも辞さない覚悟を決めた赤穂城・・・
大学長広を立ててのお家再興を目指し、必死の嘆願活動を行った赤穂城・・・
取り立てられるかチャラにされるか、血相を変えた商人たちが押し寄せた赤穂城・・・
大石内蔵助がそんなさまざまな混乱を抑え、ものものしい空気の中で無事に江戸勅使に明け渡すことを成功させた赤穂城・・・
それは紛れも無い元禄の世に出現した戦場跡でした。


赤穂城
兵庫県赤穂市


※この日は赤穂市内のホテルに宿泊

9月26日へ続く


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