安芸備後出雲播磨出征譚 (2016年9月25〜28日)その2

9月25日からの続きです。


9月26日

鞆城 〜我十五代征夷大将軍なり

室町幕府の滅亡とは一般的に、足利第15代将軍・義昭が織田信長に追放された1573年と知られているのではないかと思います。
また、室町最後の将軍・足利義昭の一般的イメージというと、信長の傀儡のクセに身の程をわきまえずにちょこまかしていたウザいやつという感じなのではないでしょうか?
でも実際のところは違います。義昭の敷いた信長包囲網はかなりのところまで信長を追い詰め、もし武田信玄が早死にしなければ信長は相当にヤバいところでした。
また、義昭は信長に京を追われた後も、毛利氏の庇護を受けて暗躍していたのです。


我は依然として将軍である!

備後(広島県東半分)の鞆城(ともじょう)に迎え入れられた義昭は、室町幕府改め鞆幕府を開き、引き続き反信長勢力に働きかけていたのです。


瀬戸内海を見下ろす小高い丘の上で

正確な記録は残っておりませんが、毛利氏と石山本願寺の連携は義昭の仲介あってのことでしょうし、もしかしたら荒木村重や別所長治、小寺政職などが織田氏から離反したのも義昭が糸を引いてのものだったかもしれません。


鞆城から眺める瀬戸内海

その後、信長が本能寺の変に倒れ豊臣秀吉が天下を統一する頃には、さすがの義昭も幕府だ将軍だと言っている訳にも行かず、最終的には秀吉の御伽衆に加わることになります。


足利幕府最後の城はここでした

一説によると、秀吉は征夷大将軍の地位を得るために、足利義昭に対して自分を養子にするよう要請するも断られてしまったとも言われております。
この話の真偽のほどは分かりません。しかし足利義昭は信長相手に最後の最後まで将軍としての意地を貫いた根性モノですから、それくらいのプライドを見せていても不思議はないことでしょう。
アタシはこの足利義昭という人のこと、結構好きだったりします。プライドばかりが高い身の程知らずといえば確かにそうなんですけれど、それは義昭は全て男らしい決断を下していたからこそ言えることなのです。
結果はともあれ、清水の舞台から何度も飛び降りつづけた足利義昭の開いた鞆幕府。その跡地は義昭の波乱万丈の人生とは正反対の、ただ穏やかに海を見下ろせる静かな丘の上でした。


鞆城
広島県福山市


鞆の浦 〜龍馬も歩いた潮騒の街〜

幕末の日本を縦横無人に駆け巡り、日本を夜明けに導いた英傑・坂本龍馬の有名なエピソードにこんなものがあります。
ある日、龍馬の友達・檜垣清治(ひがき せいじ)が、龍馬が腰に差している刀が短いことを指摘したところ、龍馬はこのように答えました。

「屋内や路地など狭い場所では短い刀の方が実戦に向いておるぜ。」

なるほどと思った清治も龍馬のマネをして短刀を差して龍馬に再会すると、今度は龍馬は拳銃を持っていたのです。

「銃の前には、刀なんて役に立たんぜよ。」

そこで清治も拳銃を手に入れると、次に龍馬に会ったとき、

「これからはコイツの時代じゃ。」

と万国公法の本をふところから出されたというw

さてこの話の真偽はともかく、龍馬が当時の海事国際法ともいえる万国公法を武器にしての大勝利を収めたことがあるというのは本当の話です。
その舞台がこの広島県福山市の鞆の浦という海岸の村なのです。


ただ静かな波の音だけが漂う海岸の町

事件はこの鞆の浦の近くの海で起こりました。紀州藩の船・明光丸と龍馬率いる海援隊の船・いろは丸が衝突し、いろは丸が沈んでしまったのです。


日本初の海難審判事件

幸いにも、いろは丸の船員は明光丸に乗り移り全員無事だったのですが、いろは丸の積荷は全て海の底に沈んでしまいました。そこで龍馬は明光丸に対し、
「このオトシマエはどうつけてくれるんじゃ!」
と海難審判を請求したのです。


正しいのはどっち?

紀州藩と亀山社中の談判は、明光丸がとりあえず寄航した鞆の浦の福善寺で行われることになりました。
さて海難審判と言っても、それは現代と違って江戸時代のことです。いろは丸は土佐藩の郷士身分の龍馬の船であるのに対し、明光丸は天下の御三家・紀州藩の船です。当然、紀州藩は龍馬のことをナメてかかったことでしょう。でもそこは航海術のエキスパートな龍馬のことです。紀州藩相手の交渉に一歩の引けも取らないどころか、万国公法を引き合いに出して紀州藩のことを散々に非難したのです。


龍馬が4日間隠れ住んだ商家

結局交渉は4日間に及んでもまとまらず、国際港である長崎で決着をつけることになりました。ちなみに龍馬はその間、紀州藩士からの襲撃を恐れ、枡屋右衛門という商家の隠し部屋に身を隠しておりました。

その後改めて長崎で行われた交渉では、龍馬の言い分が完全に認められることになり、紀州藩は土佐藩に対して莫大な賠償金を支払うことになったのです。万国公法を武器にした龍馬は見事な大勝利をあげたのでありました。


龍馬大活躍の地・鞆の浦

そんな龍馬ゆかりの地・鞆の浦、龍馬ファンには是非とも訪れて欲しいです。


見所いっぱいの展示館

まずは2枚目の写真を撮った場所、いろは丸記念館が面白かったです。


いろは丸の模型


必見!隠れ家の龍馬実物大人形w

ほかにもいろは丸から引き上げられた発掘品なども飾ってあり、博物館があまり好きではないアタシでもとても楽しむことが出来ました。


これは絶対見るべき見るべき!

また、4枚目の写真の場所・龍馬の滞在した商家には絶対に行くべきです。


貴重な部屋の完全公開(><)

なんと!龍馬が4日間隠れ住んでいた部屋の中に入ることができるのです(><)
これは物凄い感動でした。今から150年前に龍馬が座っていたであろう場所に自分も座ってみることができるのです! 龍馬が見たのと同じ部屋の壁を見つめることができるのです! 実際に歴史的事件があった場所に行き、当時の人物たちの想いを想像・体感してみる・・・正にアタシが史跡探訪に求めているものがそこにはありました。


そうでなくてもイイところ

しかもこの鞆の浦、そもそもそんな歴史的事件うんぬん関係なしに、ものすごくふいんきのいい港町です。龍馬の史跡とか鞆幕府とか一切抜きでも十分に静かな港町風情を堪能できます。


龍馬も歩いたであろう小道

そのうえこの同じ道を龍馬も歩いていたんだななんてことを想像すれば、静かな港町の情緒は何倍にも膨れ上がるというものですよ。
龍馬ファンでなくてもそうでなくても、ただ波の音漂う港町で安らぎのひと時を楽しむことができます。


鞆の浦
広島県福山市


呉〜大和ミュージアム 〜軍艦の聖地〜

歴史好きを自負するアタシですが、実は何気に第二次世界大戦オタクだったりもします。
今までにあまり語る機会は無かったのですが、そもそもアタシの歴史好きの原点は、小学生の頃に軍艦や戦車が好きだったことに端を発しているのです。
そんなアタシにとって、この呉は憧れの場所でした。あの戦艦大和をはじめ、多くの軍艦が誕生した軍艦の聖地とも言えますからね。今回はその巨大軍港の跡地を訪れること見ることが出来て本当に感動しましたよ。
かつてこの湾内には軍艦がひしめくように停泊していたんだななんて思うと胸が熱くなりましたし、逆説的に、これは確かに多くの軍艦を集結させることが出来る天然の良港だということが凄くよく分かりました。
また、この地を毎日のように米軍の艦載機が空襲して来たんだなとか、多くの帝国軍人が訓練に明け暮れていたんだなとか、そんなことを想像しても目頭が熱くなりました。
・・・ってなんでこんなことばかり書いているのかと言いますと、今回の呉訪問では、↑的なことを実感できる「写真」をぜんぜん撮っていないのです。そもそもそんな写真が撮れる撮影ポイントなんてものは無いですからね(^^; せめて呉港全体の風景でも撮りたかったのですが、そういうポイントもこれがなかなか無かったのですよ。
ってことで今回の呉遠征では、アタシが書きたいこと紹介したいことと撮った写真が今ひとつ一致しないのです。いちお呉一番の観光名所・大和ミュージアムには行って来ましたし写真もジャンジャン撮ったのですが、この大和ミュージアムについては特に文章に残したいことが無いのです・・・とは言ったものの、決して大和ミュージアムが面白く無かった訳ではありません。貴重かつ面白いものが盛りだくさんで、とても楽しむことができました。絶賛オススメ観光ポイントであることは間違いありません。
でも何故か・・・うまく言えないけれど、この大和ミュージアムのことはあまり文章に起こしたいという気が起きませんので、以下、写真と一言コメントだけペタペタ貼りますね。


平日にも関わらず人がいっぱいの大和ミュージアム


戦艦陸奥の41cm主砲!


大迫力必見!1/10スケール戦艦大和


なかなかカッコいい軍艦模型もいっぱい☆(これは空母赤城)


なんと!回天までも展示!


ゼロ戦もありました


62型とはまたマニアックな・・・


展示物は真上から見ることもできます


エントランスからは本物の潜水艦を見ることも!


う〜ん、なんというか・・・書きたいことが物凄くいっぱいあると言えばあるのです。でも逆に、だからこそうまくまとまらないというのもありますし、そもそもアタシ自身が、太平洋戦争に関するテキストの方向性を定めていないというか・・・って最後まで訳わからなくてごめんなさい(^^;
まあとにかく、アタシは太平洋戦争オタでありますし、大和ミュージアムのことはとても楽しむことが出来ました。↑の写真で紹介したものが必見であることはもちろん、ほかにも凄いものがいっぱいありますよ。

ではでは最後、大和ミュージアムから徒歩20分ほどの場所にある「歴史の見える丘公園」から見た「戦艦大和のドッグ跡」の写真を貼って終わりといたしましょう。


なぜか91式鉄甲弾が


大和はあのドッグで生まれました


ここが軍艦の聖地・呉の港です


呉・大和ミュージアム
広島県呉市

※この日は広島市に宿泊


9月27日に続く



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