安芸備後出雲播磨出征譚 (2016年9月25〜28日)その3

9月26日からの続きです。


9月27日


厳島神社〜宮尾城 三大合戦より日本三景

厳島と言えば日本三大奇襲戦・厳島の戦いの舞台です。
この厳島の戦いの概要を簡単に説明すると、当時絶賛勢力拡大中だった安芸の国人・毛利元就が、かつて中国地方の大大名であった大内氏に下剋上をカマしてその後釜に座った陶晴賢を滅ぼした戦いです。
厳島の戦いは両者の勢力をそのまま反映し、陶軍20000に対し、毛利軍は4000。その圧倒的な兵力差を跳ね返すため、毛利元就は謀略を駆使して陶軍を狭い厳島におびき出し、嵐の夜に奇襲をかけて見事、陶晴賢を自害に追い込むことに成功したのでありました。


さあ、厳島に渡るぞ

厳島は瀬戸内海に浮かぶ島なのですが、対岸からほんの2km程度しか離れていません。その気になれば泳いで渡れるくらいの距離です。


おだやかな瀬戸内海

アタシはこの通り、昼のおだやかな海を渡った訳なのですが、毛利元就軍は嵐の夜に船出したと言われています。素朴な疑問として、よくもまあ船沈まなかったな道に迷わなかったなと思ったものですが、なるほどこの距離ならなんとかなりそうですね。
ちなみに前日、広島市内のタクシーの運転手さんに聞いたところによれば、この宮島フェリーはどんな大嵐の日でも絶対欠航しないとのことでした。


おお!あれは有名な大鳥居!

そもそもアタシがこの厳島に来た目的は、厳島の戦い跡の古戦場巡りが主目的であり、厳島神社はついでに立ち寄るつもりでした。
でもやっぱり、あの有名な大鳥居を見ると、俄然、意識は厳島神社の方に行ってしまいます。
かつてはこの海を陶晴賢の船団が埋め尽くしていたんだなあとか、なるほど確かに、厳島は島そのものは大きいけれど、平地部分はエラく狭いんだなこれなら一か所に集めて一網打尽も可能だななんてことも思いました。
でもやっぱり、あの美しい大鳥居を目にすると、毛利元就が陶軍を釣ったエサである宮尾城に行くことよりも、厳島神社に対するワクワク感の方が上回ってしまいました(^^;


快晴で良かった☆

そう言えば昨日は雨降ってたし、明日は雨って天気予報なんですよね。そもそものアタシの旅コンセプトからすれば、むしろ雨の日嵐の日に厳島に来た方が、厳島の戦いというものを感じることが出来たような気もします。
でもやっぱり、せっかくの厳島観光はこんな青空の下の方がイイですよねw


鹿さんごきげんよう☆

厳島と言えば鹿がたくさんいることでも有名ですね。それにしてもまさか、こんなフェリー乗り場入口すぐに鹿さんにこんにちは☆して貰えるとは思いませんでした☆ これにはココチップも大喜びでしたねw


伊達や酔狂ではない

この厳島こと宮島は日本三景の一つです。アタシ的にはこの厳島を訪れるに当たり、特にそんなことは意識しておりませんでした。でもこの先、海に浮かぶ美しい神社の姿を目の当たりにしたら、こりゃあ確かに日本三景で間違いないだろうと思い知らされました。


鹿さんがいるのがイイねw

だんだん近づいてくる大鳥居にいやがおうにもテンションが上がります。
道中にはカッコいい松の並木が続き、さりげなく歩いている鹿さんもしっかり風景に溶け込んでいるんだからすごいです。


透き通る海

近くまで来て改めて思ったのですが、厳島の海はこのようにすごく透き通っていて綺麗なんですよ。
このときはこのとおり、丁度いい水位だったのですが、これが干潮時には干上がって鳥居まで歩いて行けちゃうんですよね。神秘的ですすごいです厳島神社(><)


綺麗なのは鳥居だけじゃないんだよなあ

厳島神社と言えば、とりあえずはあの大鳥居が有名ですが、このように、海の上に神社が浮かんでいる景色というもの超綺麗なんですよ。


廊下の真ん中が海だなんて

しかもその海上の神社の中もちゃんと見学できますからね。


これはもう言葉にできない美しさ


五重の塔まであるんだぜ


いつか干潮時の大鳥居も見てみたいですね

改めまして、青空な天気の下でこの景色を見ることが出来て本当に良かったです。


神社周りの門前町もイイ感じ

厳島神社の絶景を存分に堪能したところで、本日のメインイベントである宮尾城跡に出撃です。


・・・ってエラくシンプルだな

この宮尾城、先ほども少し書きましたが、毛利元就が陶晴賢をおびき出すためのエサとして使われたと言われている城です。
なんでも元就が、

「ちょうしコイて厳島に城なんて作っちまったけどヤメときゃよかった。あんなショボい城簡単に攻め落とされるだろうし、そうなったら逆に軍事拠点として使わてしまう・・・困った困った・・・」

なんてことをワザと陶方のスパイに聞こえるようにグチって陶晴賢をおびきよせたとのこと。


いや実際は別に弱い城じゃないしw


しかも城の周りすげー狭いから大軍展開できないしw

ということで元就は、実のところこの一戦で陶晴賢を葬ってやろうと準備万端に待ち受けて、まんまとパーフェクト勝利を収めたのでありました。


でもそのわりにショボくね?

そんなこんなで戦国三大奇襲戦(ちなみにあと二つは河越夜戦と桶狭間)の舞台となった宮尾城跡なのですが・・・なんと!本丸跡地かんばんの一つすらありません(^^;
いや確かにさ、アタシは常々こういうところに来る度に、「なにもない、だがそれがいい」とは言ってるけどさ、それにしてもこのやる気の無さはどうよと思いました(><)
おそらくは厳島の戦いとか毛利元就なんてのを無理矢理宣伝しなくても、厳島神社だけでアホみたいに観光客押し寄せてるからどーでもイイってことなんでしょうね。
論より証拠、実際にアタシ自身も厳島神社の美しさに見惚れていたら、厳島の戦いのこととかなんかどうでもイイかなとか思い始めたわけですし(^^;
宮尾城跡のあまりのやる気の無さにも、なんだか妙に納得できちゃいました。


本当いいところだったな☆

ってことで日本三景の一つにして日本三大奇襲戦の舞台でもある厳島。ものすご〜〜〜〜くイイところでした☆
なにしろこのアタシともあろうものが、日本三大奇襲戦の跡地のことがどうでもよく思えてしまうほどだったのですからね日本三景おそるべしです(><)


厳島(宮島)
広島県廿日市


吉田郡山城 〜百万一心の謀神〜

吉田郡山城は安芸(広島県西半分)の内陸山間部にある厳島の戦いの立役者・毛利元就の居城です。


こっちは立派だな

吉田郡山城と厳島の戦いの知名度を比べた場合、まず間違いなく後者に軍配が上がることでしょう。戦国ファンでなければ厳島の戦いと毛利元就のことは知っていても、吉田郡山城なんて名はまず聞いたことが無いんじゃないでしょうか?


典型的な山城ですね

というのは、毛利氏は戦国末期には本拠地を海沿いの広島城に移してますし、更に関ヶ原の後には安芸国自体が領国では無くなっておりますからね。
でもそんなマイナーな地位に転落してしまった城だからこそ、安芸高田市は一生懸命観光資源として整備しているのでしょう。
わざわざそんなことをしなくても人が来てくれる厳島とはエラい違いですね。


古びた石垣跡がイイ感じ

さてこの吉田郡山城の主である毛利元就の毛利氏なのですが、その出目は鎌倉幕府の重鎮であった大江広元の末裔とされてはいるものの、戦国時代には国人小領主でした。


なんでこんなに(略

なので吉田郡山城とは、よくいる土豪の小さな山城でしかないのですよ。


本丸、二の丸の連郭がよくわかりますね。

そんな小領主・毛利元就の小さな山城に、大大名・尼子氏の30000の軍勢が押し寄せたことがありました。


ちょっと広い本丸跡

毛利元就は近隣農民までも動員して7000の兵で籠城し、尼子氏の対抗大勢力である陶晴賢の助けを借りて見事、尼子の大軍を撃退したのでありました。


本丸跡から見下ろした連郭

その後、元就は持ち前の武勇と知略でどんどん勢力を拡大して行きます。
先に紹介した籠城戦において共闘した陶晴賢を厳島の戦いで葬り去り、吉田郡山城を大軍で包囲した尼子氏の月山富田城を逆に大軍で包囲し返して落城させるに至り、元就は中国地方の大大名としての地位を確立したのでありました。


吉田郡山の町を見下ろして

毛利元就と言えば三本の矢のエピソードが有名です。
このエピソードだけを見ると、毛利元就とは人と人との繋がりを何より大事にした恩情溢れる人物のように見えますが現実はその逆です。数々の謀略を持ってしてライバルを葬り去り、謀神と呼ばれた元就は、子供たちに常日頃このように言っておりました。
「我が毛利家のことをよく思っている者など、他国はおろか安芸の国にすら1人もいない。よくよく用心せよ。」
でもそんな元就だからこそ、謀略によってライバルの君臣兄弟一族の絆を次々に引き裂いて行った元就だからこそ、兄弟一心とならなければ毛利家を守れないということがイヤというほど分かっていたのでしょう。


そんな元就の座右の銘は・・・


百万一心・・・吉田郡山城の拡張工事をするときに、元就はこのように彫りこんだ石を一柱に変えて石垣の下に埋め込んだそうです。


謀神よやすらかに・・・

人と人との繋がりが何よりも大事なものであるという信念のもと、人と人との繋がりを引き裂き続け、謀神とまでに呼ばれた英雄は、吉田郡山城に眠っております。

吉田郡山城
広島県安芸高田市


黄泉比良坂 〜お前ら本当に神様かよ〜


黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)・・・それは出雲の国にある、この世とあの世の境界線です。


この場所で何があった?

この日本という国を作ったのは、イザナギとイザナミという夫婦神です。
イザナミは日本という国の他に何体もの神を生み出した後、最後は火の神を生んでしまい、その炎で焼け死んでしまったのでありました。(なんじゃそりゃ)
さてイザナミを失ったイザナギですが、妻であるイザナミのことをとても愛しておりました。なればこそ、もう一度イザナミに会いたいと、死者の国である黄泉の国まで行ったのです。


この向こうが黄泉の国?

遠くて暗い黄泉の道を歩いて行くと、果たしてそこにはイザナミがおりました。


あの道の向こうにいるのは正にイザナミ!

イザナギはさっそくイザナミを連れ帰ろうとしますが、イザナミは黄泉の神に相談してくるからイザナギにはここで待っているようにと言います。でもイザナミのことを待ちきれないイザナギが黄泉の道の奥へと進んでいくと、そこにはなんと!体にはウジがわき、肉体はボロボロに腐りきったイザナミの姿があったのです!

「見たな・・・見いたあなあ!!!!!!!」

己の恥ずかしい姿を見られてしまったイザナミは、イザナギを同じく黄泉の住人してやろう、即ち殺してしまおうとイザナギの後を追ってきます。
イザナギはと言えば、変わり果てた妻の姿に驚き恐れ、慌てて逃げ出したのでありました。


あと少しで逃げ切れる!

イザナギはイザナミが追っ手に使った化け物・黄泉醜女(ヨモツシコメ)に桃の実を投げつけ、そのスキをついてなんとか常世に逃げてきたのでありました。


これでも食らえ!

そして黄泉へと通じる道を大きな岩で塞ぎ、この世とあの世を完全に隔離したのでありました。


もうイザナミも追って来れまい・・・

イザナミ:
「お前の国を絶対に滅ぼしてやる!毎日1000人の人間を殺してやるからな!」

岩の向こうから呪いの言葉をかけるイザナミに対し、

イザナギ:
「だったら私はこの国で、毎日1500人の子供を作れるようにしてやる!」

イザナギはこのように返しました。
こうして地上の人間はどんどんどんどん増えて行き、やがて日本という国になったのです。

それにしても・・・イザナミしかりイザナギしかり、お前ら本当に神様かYO!ってツッコみたくなりません?w こんな威厳の無い連中が日本という国を作ったのかと思うと嬉しいやら哀しいやら・・・
また、この話はアタシ的には日本神話ベスト5に入るくらいの名場面だと思うのですが、果たして日本国民の何%が黄泉比良坂のことを知っていることやら・・・
前にもどこかで書いたことか思いますが、小学校から習う日本史の授業では、まずはこの日本神話から始めるべきだと思いますよ。諸外国では、まずは自分の国に対する愛国心を育てるために自国の建国神話をしっかり教えるそうですが、なぜ日本はそうしないのか・・・
もっとも、こんな連中が日本を作ったなんてのは嬉しいやら哀しいやらなんだか微妙な気持ちになるような気もしますけどねw


黄泉比良坂
島根県東出雲町


この日は明石市に宿泊し、次の日は何処にも寄らずに帰還しました。

以上が今回の旅のあらましです。
今回の出征で感じたことは、こっちの人にすごく歓迎して貰えたなってことですね。
アタシのフィットの新潟ナンバーを見られて、エラく遠くから来なすったね〜なんて言われたことが何度もありましたし、最後に紹介するごはん時には、大抵アタシは余所者と見破られてしまい、新潟から来たと話すとみなさんすごく親切に色々とお話してくれました。今まで色々な場所を旅して来ましたが、この親しみやすさ愛想の良さは広島の人が一番なんじゃないかと思いますね。
それにしても、旅先で地元の人たちのやさしさに触れたときって、本当遠くまで来て良かったと実感します。旅って本当にイイものですよ(^^)

ではでは最後、道中で食べた物を紹介をココチップにおまかせします☆




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