小山田信茂屋敷跡 〜裏切り者と見限り者〜 (2018.8.5)

先日、山梨県の昇仙峡に遊び行った際、以前に訪れたことのある躑躅ヶ崎館の近くを通りかかった折りにこんな看板を見つけてしまいました。


お前はまさか!?

そうです、躑躅ヶ崎館のすぐ裏手には、戦国十大裏切り不忠者の一人には数えられるであろう小山田信茂の屋敷があったのです。


こんな大物も住んでいた

また、その隣には武田信玄の弟・武田信廉や武田二十四将の一人・土屋昌続の屋敷があったようです。そのような武田重臣銀座に館を構えていたということは、小山田信茂とは武田家中においてもかなりの重臣だったということなのでしょう。


武田家重臣銀座

さてこの小山田信茂、詳しくは「岩櫃城 〜武田勝頼最後の決断〜」をお読み頂けたらと思いますが、要するに最後の土壇場になって武田勝頼を裏切って武田家を滅亡に追いやった卑怯者としていたく評判の悪い人なのです。
もっとも、小山田信茂はもともと武田家の家臣という訳ではなく、あくまで一地方を治める国人領主の一人なのだから、武田方から織田方についたのはたんに弱い方から強い方に鞍替えしただけの話であり、「裏切り」とは違うのではないかという意見もあります。
とは言ったものの、甲陽軍艦などで見る限りでは「岩櫃城 〜武田勝頼最後の決断〜」に書いてあるとおりそのやり方はかなり卑劣なものでありますし、実際、最後に大手柄?を立ててホクホク顔で信長の前に現れた信茂のことを信長は「武田家に対する不忠者め!」と一刀両断に処刑しております。ということはやはり、当時の人の目から見ても小山田信茂は大不忠の裏切り者だったということなのでしょう。

もっとも、小山田信茂同様、武田家重臣でありながら武田家を裏切った人物と言えば他にも穴山梅雪、木曾義昌などという人物がおります。木曾義昌はそれこそ信玄の部下という訳ではなくあくまで国人の一人であったという見方ができますが、穴山梅雪などは代々武田家と姻戚関係にあるという一門衆の筆頭です。にも関わらず武田勝頼を見捨てて織田方に走った梅雪はしっかり本領を安堵され、武田家滅亡後も旧武田領における重鎮扱いをされております。木曾義昌にしても同様です。

この小山田信茂と穴山梅雪の差はどこから来たのかと言えば、それは「裏切り」と「見限り」の違いなのでしょう。
穴山梅雪は早々と武田家を見限ったところを信長に評価されました。でも最後の最後まで武田家を見限る決断をすることができず、最後の最後で慌てて鞍替えした信茂の行動は現代の我々の目から見ても見苦しいものと映ります。
もっとも、穴山梅雪がその後どうなったのかと言えば、本能寺の変の折りに徳川家康の手によって捨て駒にされたあげく農民に討ち取られるという無残な最期を遂げております。
また、木曾義昌の方はと言えば、武田家滅亡後に入植してきた織田家重臣・森長可にいいようにあしらわれ、本能寺の変後は豊臣徳川の争いに翻弄されるという、正に地方豪族の悲哀を味わいながらもなんとか国人領主として生き延びることに成功しております。

裏切り者と見限り者の三者三様の物語・・・現代の我々にも通じる何かを教えてくれているのではないでしょうか?



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