新府城〜躑躅が崎館 〜武田親子の城と館〜 (2014.9.14)


新府城 〜幻の引きこもり館〜

武田勝頼と言えば、泣く子も黙る超猪大名でした。勝頼はなまじ野戦司令官としての才能があったために、戦一辺倒でも何の問題も無く近隣諸国に名を馳せていたのですが、長篠の戦いに敗れてからはその勇名にも陰りが差します。更に御館の乱の介入にも失敗すると勝頼はいよいよケツに火がつき、攻撃一辺倒な姿勢を改めて、頑強な防御壁を築かざるを得なくなりました。そこで築かれたのがこの新府城です。


こんなにデカいのか

新府城はさすがにかつては戦国最強を謳われた武田の城です。その敷地の広大たるや、アタシが今までに見た山城の中でも相当大きい部類に入ります。
険しさという点で言えば、何でこんなに(略な感じでは無いのですが、よくもまあこんなに広い台地を見つけて来たなということに驚かされます。


本丸跡の台地

本丸、二の丸、三の丸と、とにかく大きな曲輪が築ける地形で、巨大城郭を作るには本当にうってつけの土地でした。
そんな理想的な段々地に築かれた城ですので、土塁も綺麗に残っておりました。


二の丸の土塁

・・・ですがこの新府城、残念ながら勝頼が本拠地として使用した期間は2年に満たず、しかも最後まで完成することは無き状態だったようです。


本丸跡からの眺め

新府城は、神速とも言える速度で勢力を拡張した織田信長に対して、突貫工事であわてて作った城でした。でもそれが籠城戦に耐えうる準備が整う前に信長の侵攻が始まってしまったが為に、対織田戦争には間に合わなかったのです。


勝頼よ安らかに

勝頼は結局、この未完成の超巨大城郭に自ら火を放ち、新府城を放棄せざるを得ませんでした。
これだけ立派な土塁が連なっているにも関わらず未完成だったとは、完全体の新府城とはいったいどれだけ凄い城だったのでしょう?
ココまで超気合いを入れて作った城を、一度も戦闘に使うことなく自ら破壊してしまった勝頼の心情は、どれだけ無念だったことでしょう?
対信長戦には使われることの無かった新府城ですが、現代の我々には大きな謎を投げかけてくれております。

新府城
山梨県韮崎市 七里岩ライン沿い


躑躅が崎館 〜ハッタリと謀略の館〜

一方、勝頼の父・信玄は、新府城のある韮崎市の山奥から車で15分ほど走ったところにある山梨県の県庁所在、甲府市に城というか館を構えておりました。


甲府駅前の信玄像

という訳で甲府駅前に移動してきたのですが、まず驚かされたのがこの信玄像ですね。さすがに地元で神様扱いされている英雄だけあります。えてしてこういう英雄像というのは、凛々しく立っていたりカッコよく馬に跨っていたりするものです。にも関わらず、こんなふうにどっしり座っている姿が様になっているのが信玄公ならではですね。


甲府名物ほうとう

さて甲府名物といえばほうとうです。甲府駅前には有名なほうとう屋が何件かあり、その何処に行ってもワラワラと行列が出来ていました。その有名店の一つ、奥藤で食べたのがこのほうとうです。
15分ほど並んで高い金を出してはみたものの、大して美味しくはありませんでした(^^;
決してマズいという訳ではないのですが、そもそもほうとうという食べ物自体のポテンシャルが大したことないのでしょうね。それは日本全国に普及している小麦粉麺の中にほうとうが入っていないのを見れば分かります。
にも関わらず、なぜゆえほうとうの店にはこんな行列が出来ているのかマジ不思議ですね。・・・ってアタシもその一人だったわけですが(^^;

ってことで前置きが長くなってしまいましたが、躑躅が崎館の報告です。
人は城 人は石垣 人は堀 などと詠った武田信玄はその言葉通り、城をいうものを築きませんでした。信玄にとっての城とは人すなわち領民と配下の武将であり、その領民と武将が破られない限りは負けることはない・・・逆に言えば、人を城とすることが出来なければ、城など作ってもすぐに落とされてしまうと考えていたそうです。
そこで信玄の本拠地は城ではなく、躑躅が崎"館"だったのでした。


現在は武田神社となっております。

また、かつて武田勝頼もこの躑躅が崎館を本拠にしていたのですが、人という城が破られてしまったがために、新府城に移らざるを得なかったのです。
先に紹介した新府城は、見事な台地城でしたが、この躑躅が先館は見事に平地のド真ん中に位置しております。これなら確かに、新府城とは違って、たくさんの人々と交流することができたでしょう。沢山の人が行きかうということは、当然、攻め上がって来るのも簡単ということですし、スパイや余所者もすぐに招き入れてしまうということです。
そんな場所に本拠をかまえたということは、信玄はよほど配下の武将を信頼していたということだし、誰もココまで攻めてくることは出来ないだろうという自信を持っていたればこそのものだったと、筆者はそのように聞いておりました。


これが館?

・・・が、実際に躑躅が崎館を訪れてみて思ったことは、「これ完全に城じゃん!」ってことでした。いや確かに、新府城なんかに比べればぜんぜん城とは言えないし、かつてアタシが訪れたいろんな戦国大名の本拠地のほとんどが山城だったことを思えば、信玄の躑躅が先館は小城だとは思います。それも戦国最強武将の名を欲しいままにする大大名の本拠地としては、あまりに小規模なことは確かでしょう。


いや土塁あるし

でもやはり、躑躅が崎館を"館"と呼ぶには抵抗があります。回りは水堀で囲まれているし、土塁や石垣も見事なものです。もしこの躑躅が崎館を攻め落とそうと思っても、そう簡単に落とすことは出来ないでしょう。


防御力高いぞ?

という訳で実際に訪れてみた躑躅が崎館なのですが、さすがに"館"と呼ぶにはハッタリが過ぎると思います。でもだからと言って、信玄が絶対ココまで攻め込まれない自信があったというのもウソだったのかと言えば、そうでも無いような気もします。信玄の財力があれば、もっと頑健立派な城を作ることも出来たでしょうからね。


こりゃあ立派な館です

ってことはもしかして・・・実際に信玄の躑躅が崎"館"を訪れた敵国人が、

「なんだ信玄殿も人が悪い、城などいらないと言っておきながら、こんなに立派な城を持っているではないですか」

などと言ってきたときに、

「え?キミの国はこの程度でも城扱いなの? いやーオレのレベルだとこの程度では城じゃあなくて館だよ。」

などというセレブ自慢がしたかったのかもしれませんねw

躑躅が崎館
山梨県甲府市 JR甲府駅から2kmくらい


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