槙島城 〜マジ話が違うんスけど!〜 (2020.9.2)


室町幕府最後の将軍・足利義昭が最後にたてこもった場所がこの宇治にある槙島城です。
足利義昭と言えば、織田信長がかつぎあげた将軍です。
将軍になりたいけれど武力を持たない義昭と、武力はあれど権威が無い信長ということで、両者はお互いに無い部分を補完しあう蜜月関係でした。
ですが両者の関係はだんだんと微妙なものになって来ます。
信長としては義昭には将軍の地位を保証し贅沢三昧はさせてやるからおとなしくお神輿やってろというのが本音です。しかし足利義昭という男は行動力があり頭もキレるというただの傀儡で満足するような男ではありません。将軍は自分なんだから、信長はおとなしく管領なり副将軍なりになってしっかり自分を補佐しろと思っている訳です。
こうして両者の蜜月関係はアッサリ破綻してしまいます。
とは言ったものの、両者ともどもまだまだお互いの弱点を補完する存在であることに変わりはないので、表面上は平静を装いながら、義昭は平然と京の御所に居座り、信長はその将軍御所を今まで通り警護するという奇妙な関係が続いていたのです。

そんなこんななおかしな二人ですが、ついに決定的な破綻を来すときがやってきました。それは戦国最強武将・武田信玄の上洛作戦の発動です。
今までも義昭は水面下で色んな大名に手紙を送って「信長包囲網」を築き上げ信長を苦しめてはいたのですが決定打をあげることはできません。義昭はそのままちゃっかりかごの中の鳥状態を続けるしかありませんでした。

が、しかし、武田信玄は違います。戦国最強を謳われる最強の騎馬隊を率い、さっそく信長の同盟者・徳川家康を三方ヶ原でボコボコの血祭りにあげてしまったというのですから義昭はきっと小躍りして喜んだことでしょう。

今度こそ信長を倒して名実ともに征夷大将軍になれる日が来る! そう判断した義昭はかごの中の鳥状態を脱し、京都郊外の槙島城にたてこもったのでありました。

もしもマジで信玄率いる武田騎馬隊が京になだれ込んだらさすがの信長もかなりヤバかった所でしょう。ですが歴史の神は義昭には微笑まず、信長を選んだのでありました。
なんと!義昭が信長の元を脱出したときにはすでに武田信玄は息を引き取っていたのです!

現代ならそんなことちょっと考えられないところでありますが、戦国時代にはインターネトはおろか、テレビも電話も無かったのです。しかも信玄はその死に際し、

「自分の死は3年間は秘匿せよ。」

などと遺言していたのも地味に利いていたのかもしれません。
ってか信玄!そもそもアンタの西上作戦は義昭様の命を受けてのものなんだから、せめてそのことを義昭様には話しておけよな(^^;


グーグルマップ見た感じこの辺なんだけど・・・

ってことで訪れてみた槙島城なのですが、アタシは京から山あり谷あり向こうにある山城なんだろうなと思って行ってみたら、何の変哲もない超ツルペタ地形のお城じゃないですか(^^;


本当に城跡なんてあるのか?(^^;

いちお当時は宇治川に囲まれている水城だったとのことですが、それにしても京の都から何の地形的障害も無しにほんの三里程度しか離れていないのです。どうあがいても信長の大軍相手に籠城しきれるとは思えません。にもかかわらずココまで来たってことは、義昭はよっぽど戦国最強武将・武田信玄に期待を寄せていたということなのでしょう。


おいおいこれかYO!

ということは、そこまで入れ込み信じていた救世主が実は死んでいたと知ったとき、義昭の落胆は一体どれほどのものだったのか・・・いざ実地にこの弱弱な小城を訪れてみて、改めて義昭の絶望のドン底を暗く感じることができました。


城ってレベルじゃねーぞw

さてその後の槙島城なのですが、アッサリ落城させられてしまったことは言うまでもありません。そして最大最強のライバル武田信玄が死んでしまった今となっては、信長にももう怖いものはありません。もはや神輿の義昭など必要無しとばかりに京の都を追放してしまったです。

ですが義昭はそこで選手生命を絶たれてしまうような軟弱なタマではありません。その後は毛利氏の庇護を受けて鞆幕府なるものを開き、まだまだ京都奪還の夢をあきらめることは無いのでした。


槙島城
京都府宇治市槇島町29の92


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