木曽福島城 〜どうすりゃイイんだ!?弱小国人〜 (2021.5.29)

今日は信州の代表的国人・木曽義昌の居した木曽福島城に行ってきました。
木曽義昌は自称・木曽義仲の血を引く名門の一族ということで、信州南部・木曽の地で幅を利かせていたのですが、戦国最強武将・武田信玄の侵攻の前には為す術もなく撃沈します。
ですが木曽氏はいちおう名族であるうえに、木曽は山深く統治しにくい地であるがために、義昌は信玄の娘をめとり、一門衆となって木曽の統治を任されることになりました。


あの山の上が木曽福島城

その後も武田軍団の有力国衆の一人として重きをなしていたのですが、信玄の死後は武田勝頼のイケイケ拡張路線に微妙なものを感じるようになります。長篠での惨敗で武田騎馬軍団の名声威勢が地に落ち、その劣勢を取り返すために勝頼が重税を課して新府城の築城を始めると義昌は武田家を見限り、ついには武田家を裏切って織田方につくことを決めたのです。


木曽の山猿め許さんぞ! ※鳥居峠から

このことに怒り狂った勝頼はさっそく義昌討伐の軍勢を差し向けるのですが、木曽福島城から四里ほど北方に位置する鳥居峠で勝頼軍を返り討ちにします。


この鳥居峠にて


500人が討ち死にしたらしいです(><)

その後、義昌は織田軍団の道案内を務めるような形で甲州征伐・武田攻めに参加し、武田家滅亡後はその活躍を賞されて莫大な恩賞と信州2郡の地を得ることになったのでありました。
・・・新府城にて人質となっていた母と側室と子供の命と引き替えに。

妻子を失いはしたものの、このまま織田家が天下統一を果たしていれば、木曽義昌は信州随一の名家としてその将来は安泰だったんでしょうけれど、そうはならなかったのは皆さんご存じのとおりです。
本能寺の変により織田家が瓦解すると、まだまだ政情不安定だった信州の地は大混乱に陥り、義昌はまたしても選択の岐路に立つことになります。織田を助けるか見限るか? 思案のあげく義昌は織田を見限り、織田家の信州代表・森長可を襲うことを選択したのですが、相手はさすがに鬼武蔵と呼ばれた猛将です。長可はまんまと義昌を返り討ちにしてその長男を人質に取り、義昌はむしろ長可の信州脱出の手助けをさせられるハメとなったのです。
長可は信州を脱出すると同時に長男を解放してくれたからまだ良かったものの、この一連のいざこざにより義昌はせっかく得た領土の殆どを失ってしまい元の木阿弥、木曽の一国人に戻ってしまったのでありました。


また木曽の山奥に引き籠るしかないのか・・・

その後の信州の地は北条、徳川、上杉による奪い合い戦乱状態となり、義昌はまたしても誰につくか味方するかの生き残り選択を迫られることになったのです。義昌はその時々の情勢で目まぐるしく主君を変えて行き、最終的には徳川家康傘下となってなんとかこの「天正壬午の乱」を乗り切ることが出来たのですが、今度は秀吉と家康の最終決戦、小牧・長久手の戦いが開幕し、またしても究極の選択を強いられることになったのです。


今度はどこに出陣すれば!?

・・・って戦国時代の弱小国人の立ち回りっていったいどんだけハードモードなんだYO!
長篠合戦後の勝頼を見限るか織田家につくかという運命の選択においては、どっちに行っても地獄の道だったとしか言いようがありません。なにせ勝頼につけば滅ぼされるし織田につけば妻子を殺されるんですからね・・・
また、本能寺の変後の立ち回りについても殆ど綱渡り状態だったと言ってもいいでしょう。鬼より怖い鬼武蔵にケンカを売らざるを得ない状況に追い込まれただけでも悲惨だってのに、逆に人質を取られて織田家の落ち武者狩りに躍起になってるその他信州の国衆相手に鬼武蔵を逃がすための説得工作をやらされるなんてどんな罰ゲームなんスか(^^;
とは言ったものの、あそこで鬼武蔵を襲わなければ、周囲の旧武田家遺臣に織田方とみなされてフルボッコにされたでしょうし、いったいどうすりゃいいんだー(><)


木曽の時点でゲームオーバー?

その後の天正壬午の乱においてもおそらくは、一歩間違えば滅ぼされるような状況が出現していたことでしょう。ってかそもそもスタート地点の武田信玄侵攻時点において、木曽の弱小領主なんてやってた時点で義昌の運命はどうにもならなかったようにしか見えないのはアタシだけですかね(^^;


ああ悲しい弱小国人の福島城・・・

ってことで話を戻して木曽義昌にとっての最終サバイバル、小牧長久手の戦いにおける選択はどうしたのかと言えば、義昌は徳川方の旗色悪しとみて秀吉方につくことを決断します。こうしてまたしても義昌は木曽の地において侵攻軍を迎撃しなければならないシチュエーションに陥ってしまうのですが、これまた辛くも徳川方の侵攻を妨げることに成功したのでありました。
ですが秀吉と家康が和睦したことにより義昌の立場は微妙なものとなります。信濃と言えばバリバリの徳川家康領真っただ中。その中に一人ポツンと取り残された義昌は、秀吉の命により徳川傘下に入ることになったのです。取り潰されることこそ無かったものの、ついこないだ逆らったばかりの相手の与力となるのはなんとも居心地が悪かったことでしょう。
その後は家康の関東移封に伴い、義昌も木曽の地を離れて下総国阿知戸(現在の千葉県旭市)に1万石で移封されることになりました。もしも義昌が小牧長久手の戦いにおいて徳川方についていたとしても、やはり義昌は木曽の地を失い、移封を余儀なくされていたとは思います。ですがもう少し石高はたくさん貰えていたのかもしれませんね。


果たして義昌の選択は正しかったのか? ※木曽福島の町にて

大大名の勢力争いに翻弄されて常にサバイバル究極の選択を強いられてきた木曽の弱小国人、木曽義昌。最後の最後、阿知戸にたどり着いて己が生涯を振り返ったとき、もしかしてあの時のその選択は間違っていたのではないか?ああすればよかったのではないか? そんな思いをよぎらせて反省後悔していたのか? それとも、小大名とは言えど、最後まで生き延びることができた自分の選択は決して間違いなかったと正々堂々胸を張っていたのか? 
できるものなら木曽義昌のドキュメンタリーインタビューを見聞きしてみたいものですね。
そんな木曽義昌は新天地の下総国阿知戸では善政を敷いて名君と称えられ、現代においても旭市の木曽義昌史跡公園にて祀られております。


鳥居峠
木曽郡木祖村藪原

木曽福島城
木曽郡木曽町福島




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