弘前城・津軽為信 〜義理堅き乗っ取り屋〜 (2023.9.16)

※2023年夏の旅より

日本百名城の一つにして日本三大桜名所と言われる弘前城を築いたのは、津軽為信というしたたか武将です。
津軽為信はもともとは大浦為信といい、東北随一の大名・南部氏の庶流のいわゆる国衆の一人でしたが、南部家が家督争いでゴタゴタした隙をついて近隣豪族を次々と打ち倒し、1571年に独立宣言をブチあげます。


独立するぞ弘前城

そんな為信の所業をもちろん周りの連中が放っておく訳はありません。為信は元の主君の青森県・岩手県を領する南部晴政や秋田県一帯を領する大名・安東愛季氏らとの抗争を繰り広げることとなりますが、1579年の「六羽川合戦」において安東・南部連合軍を打ち破ったことにより、国衆クラスから大名レベルへの昇格を果たすことに成功します。
その後も為信は着々と津軽半島統一に向けて邁進していくのですが、元の主君の南部家ではなんと!第二次後継者争いが勃発し、大浦為信がどーこー言ってる場合じゃなかったのです。一方の安東愛季の方はと言えば、攻略目標を北部から南部に変えて、秋田県中南部の戸沢氏との抗争に没頭して行ったのでありました。


この城の行く末は?

そんなこんなで周辺大勢力のスキマをついてウマいこと津軽の主になった為信の耳に、豊臣秀吉なる人物が破竹の勢いで日本全土を席捲しはじめているとの話がチラホラ聞こえてくるようになります。これからは豊臣の時代になると一早く感じ取った為信は早々と豊臣家への帰順工作に奔走します。秀吉が部類の鷹好きであることを知った為信は、石田三成を介して東北名産の鷹の中でも選りすぐりの鷹を送ったりして秀吉の機嫌をとり、津軽本領安堵を勝ち取ったのでありました。


やったぜ弘前城

一方の南部信直も、大浦為信はトンでもない逆賊である!と秀吉に訴え出たものの時すでにおすし。為信は南部信直が小田原征伐中の秀吉のもとに参陣する1か月前に秀吉との謁見を果たしており、為信は押しも押されぬ豊臣政権下の独立大名家としての身分を手に入れていたのでした。
もしこのとき、為信と信直が顔を合わせていたとしたら?お互いどんな表情でどんな会話を交わしていたのか気になるところですねw 
なお同時期、為信は秀吉のみならず公家of公家の近衛家にも貢物をしており、前関白・近衛前久とも誼を通じて大浦から津軽への改姓しております。こうして為信はますます南部信直の手の届かない存在になっていたのでありました。
ちなみにこの令和の世になっても津軽と南部の確執は続いていて、青森県の津軽人と南部人の仲が悪いというのはウソのようなホントの話のようですw


石垣よりも土塁が多いぞw

このように目端の利く為信は、関ヶ原の戦いにおいてはもちろん東軍として参戦します。ですが当時、嫡男の信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にありました。関ヶ原の戦いが終わり大坂城が開城された際、なんと!信建は石田三成の子の重成を津軽・弘前城に連れ帰ったのです。一体なぜそんな徳川への背信行為ともとれるような行動を取ったのか? その謎は明治の世になってから解き明かされることになります。
弘前城には「館神」と呼ばれる社があり、さらにその社の奥には開かずの厨子がありました。廃藩置県後にその開かずの厨子を開いてみると・・・なんと!その中には豊臣秀吉の木造が祀られていたのです。
主君である南部家を裏切り独立し、ゴマ摺りワイロ攻勢で保身を図るようなコスい人物に見える津軽為信ですが、自分を大名身分に取り立ててくれた豊臣秀吉と、その取次をしてくれた石田三成への恩を忘れずに、自らの身の危険を顧みずに義理を果たした忠義者だったのでした。


実は義理堅いぞ津軽為信

ところでこの弘前城、めっちゃ広かったです。なんにせ端から端まで1.5kmもありましたし、先に訪れた五稜郭なんぞより10倍くらいは強そうでした。最終的には独立大名となった津軽為信ですが、もともとは南部氏の従属であったことを考えると、たかだか田舎大名の一家臣がこんなデカい城を持つのはエラく贅沢ですよ。なるほどそれなら一つ南部氏に反旗を翻して独立してやろうって気になるのも分かります。


侮れないぞ弘前城

・・・ってそれどこかの城で同じような感想を抱いたことがあったような? そういえば同じ南部一族の九戸政実の九戸城も、たかだか田舎大名の家老程度がこんなデカい城を持ったらそりゃ勘違いしちゃうわなと思ったことがありましたね。かたやなで斬りされた九戸政実と津軽為信、その差はいったいどこにあったんでしょうね。


後ろに望むは岩木山



弘前城
青森県弘前市下白銀町1




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