九戸城 〜ああ勘違いの田舎大名 (2017.9.7)

豊臣秀吉が並みいる戦国大名たちをなぎ倒して天下統一を果たしたのは1590年であると、歴史の教科書にはそのように書いてあると思います。

ですがそれで戦国の世に平和が訪れたのかと言えば少し違います。なるほど確かに、1590年に小田原城の北条氏を倒したことにより秀吉に逆らう大名がいなくなったのは事実ですが、秀吉が発した惣無事令・・・大名同士の私闘を禁ずるという命令までもが完全に守られていたというと、それは微妙なものだったのです。
特に東北の地ではその傾向が顕著でした。実際に秀吉率いる圧倒的な大軍と戦った九州四国勢とは違い、宇都宮での軍事パレードで朱印状を貰っただけの東北の大名たちではその意識が違ったものだったとしても無理のないことでしょう。
秀吉の本当の恐ろしさを知らない一部の大名の領内では宇都宮仕置の内容に大いに不満を持った国人連中であふれ、大々的な一揆が勃発していたのでした。

その中でも特に規模が大きかったのが、この九戸城にて起こった九戸政実(くのへまさざね)の乱です。細かいことを書くとキリが無いのですが、要するに南部家の有力一族であった九戸政実が、秀吉のお墨付きを貰った南部家の当主・南部信直のことが気に入らないから反乱を起こしたという話です。

1591年6月、東北の連中がヒャッハーしている状況にいい加減キレ気味だった秀吉は奥州仕置軍を結成して九戸政実の籠る九戸城に迫ります。この九戸政実の乱の鎮圧は自分の力のすごさを東北の連中に見せつけてやるイイ機会と思ったのか、秀吉は九戸城の撫で斬りを命じ、九戸城は多くの城兵城民とともに業火に包まれたのです。


ここで悲劇の大殺戮が

この九戸城攻めの容赦無さを目の当たりに見せつけられた東北の大名連中は震えおののきおとなしくなり、これでようやく東北の地から戦が無くなったのでした。

ってことで訪れてみた九戸城なのですが・・・


これが九戸政実の城!?

なんじゃこりゃああ!!!!!デカすぎだろ(><)
あたしゃてっきり九戸政実なんざ地方の小豪族に毛が生えたようなモンだろくらいに思っていたんですよ。東北の田舎侍が天下人さまに逆らおうなんざ1億光年はええだろ全くもって井の中の蛙の勘違いもはなはだしいわと思いきや、なるほどこんなすげえ城を治めていたんじゃあちょっと調子コキたくなっても仕方ないですね。


土塁と空堀も超立派

まあよくよく考えたら南部家は石高こそ20万石程度なれど、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われたほど広大な領地を持った大名だった訳ですから、そのナンバー2ともなればそうバカにしたものでもありません。


これが家老クラスの城かよ・・・

それにしても家老クラスにしてこんなバカでかい城を持っている南部家って実はかなり凄い大名だったんだなって改めて思わされました。
こんなヤツが背後にいたんじゃあ伊達政宗があと10年速く生まれていたとしても、天下は取れそうにありませんね。


史跡としての保存状態までバッチリ

九戸城
岩手県二戸市福岡城ノ内

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