甲斐伊豆房総周遊記 (2014年9月14〜17日) その1

9月14日〜17日にかけて行って来た毎年恒例の夏休み旅ですが、この2014年は3つのテーマで構成してみました。

その1 武田親子の城跡
その2 源頼朝の旗揚げ後の道筋を追う
その3 思い出の九十九里浜

まずテーマ1なのですが、ココまで攻めて来れるヤツはおらんだろうという絶対の自信のもとに武田信玄が住んでた"館"と、子の勝頼がいよいよマジパネ状態で絶対堅固の篭城用に作ったという新府城。この親子で全く違ったコンセプトで作った城を見比べてみる。それから旅道中のついでに、今度は信玄があの手この手で攻め落とした深沢城を訪れてみました。
次にテーマ2。頼朝が伊豆の蛭が小島に流されて、それから旗揚げ、敗北、山に隠れて逃走と、この流れを追ってみると同時に、蛭が小島周辺のスポットを巡ってみました。
最後にテーマ3。テーマ1からの流れで、頼朝と同じ様に安房(房総半島南部)に渡ってみて、こうして無理矢理行こうとしなければ一生訪れることは無いであろう房総半島太平洋側を爆走してみたい!というものでございます。
今回の旅日記も、そのときその場でその人が、どんな気持ちになったのか?なぜこの場所だったのか? そんな実地に訪れてみて初めて分かること満載のとても楽しいものとなっておりますので、どうぞご覧ください。
なお、今回の旅はこのようなテーマ別の構成ですので、実際に訪れた時系列とは若干ずらした旅記録となっておりますことをご了承ください。


第一章 武田親子の居城


新府城 〜幻の引きこもり館〜

武田勝頼と言えば、泣く子も黙る超猪大名でした。勝頼はなまじ野戦司令官としての才能があったために、戦一辺倒でも何の問題も無く近隣諸国に名を馳せていたのですが、長篠の戦いに敗れてからはその勇名にも陰りが差します。更に御館の乱の介入にも失敗すると勝頼はいよいよケツに火がつき、攻撃一辺倒な姿勢を改めて、頑強な防御壁を築かざるを得なくなりました。そこで築かれたのがこの新府城です。


こんなにデカいのか

新府城はさすがにかつては戦国最強を謳われた武田の城です。その敷地の広大たるや、アタシが今までに見た山城の中でも相当大きい部類に入ります。
険しさという点で言えば、何でこんなに(略な感じでは無いのですが、よくもまあこんなに広い台地を見つけて来たなということに驚かされます。


本丸跡の台地

本丸、二の丸、三の丸と、とにかく大きな曲輪が築ける地形で、巨大城郭を作るには本当にうってつけの土地でした。
そんな理想的な段々地に築かれた城ですので、土塁も綺麗に残っておりました。


二の丸の土塁

・・・ですがこの新府城、残念ながら勝頼が本拠地として使用した期間は2年に満たず、しかも最後まで完成することは無き状態だったようです。


本丸跡からの眺め

新府城は、神速とも言える速度で勢力を拡張した織田信長に対して、突貫工事であわてて作った城でした。でもそれが籠城戦に耐えうる準備が整う前に信長の侵攻が始まってしまったが為に、対織田戦争には間に合わなかったのです。


勝頼よ安らかに

勝頼は結局、この未完成の超巨大城郭に自ら火を放ち、新府城を放棄せざるを得ませんでした。
これだけ立派な土塁が連なっているにも関わらず未完成だったとは、完全体の新府城とはいったいどれだけ凄い城だったのでしょう?
ココまで超気合いを入れて作った城を、一度も戦闘に使うことなく自ら破壊してしまった勝頼の心情は、どれだけ無念だったことでしょう?
対信長戦には使われることの無かった新府城ですが、現代の我々には大きな謎を投げかけてくれております。

新府城
山梨県韮崎市 七里岩ライン沿い


躑躅が崎館 〜ハッタリと謀略の館〜

一方、勝頼の父・信玄は、新府城のある韮崎市の山奥から車で15分ほど走ったところにある山梨県の県庁所在、甲府市に城というか館を構えておりました。


甲府駅前の信玄像

という訳で甲府駅前に移動してきたのですが、まず驚かされたのがこの信玄像ですね。さすがに地元で神様扱いされている英雄だけあります。えてしてこういう英雄像というのは、凛々しく立っていたりカッコよく馬に跨っていたりするものです。にも関わらず、こんなふうにどっしり座っている姿が様になっているのが信玄公ならではですね。


甲府名物ほうとう

さて甲府名物といえばほうとうです。甲府駅前には有名なほうとう屋が何件かあり、その何処に行ってもワラワラと行列が出来ていました。その有名店の一つ、奥藤で食べたのがこのほうとうです。
15分ほど並んで高い金を出してはみたものの、大して美味しくはありませんでした(^^;
決してマズいという訳ではないのですが、そもそもほうとうという食べ物自体のポテンシャルが大したことないのでしょうね。それは日本全国に普及している小麦粉麺の中にほうとうが入っていないのを見れば分かります。
にも関わらず、なぜゆえほうとうの店にはこんな行列が出来ているのかマジ不思議ですね。・・・ってアタシもその一人だったわけですが(^^;

ってことで前置きが長くなってしまいましたが、躑躅が崎館の報告です。
人は城 人は石垣 人は堀 などと詠った武田信玄はその言葉通り、城をいうものを築きませんでした。信玄にとっての城とは人すなわち領民と配下の武将であり、その領民と武将が破られない限りは負けることはない・・・逆に言えば、人を城とすることが出来なければ、城など作ってもすぐに落とされてしまうと考えていたそうです。
そこで信玄の本拠地は城ではなく、躑躅が崎"館"だったのでした。


現在は武田神社となっております。

また、かつて武田勝頼もこの躑躅が崎館を本拠にしていたのですが、人という城が破られてしまったがために、新府城に移らざるを得なかったのです。
先に紹介した新府城は、見事な台地城でしたが、この躑躅が先館は見事に平地のド真ん中に位置しております。これなら確かに、新府城とは違って、たくさんの人々と交流することができたでしょう。沢山の人が行きかうということは、当然、攻め上がって来るのも簡単ということですし、スパイや余所者もすぐに招き入れてしまうということです。
そんな場所に本拠をかまえたということは、信玄はよほど配下の武将を信頼していたということだし、誰もココまで攻めてくることは出来ないだろうという自信を持っていたればこそのものだったと、筆者はそのように聞いておりました。


これが館?

・・・が、実際に躑躅が崎館を訪れてみて思ったことは、「これ完全に城じゃん!」ってことでした。いや確かに、新府城なんかに比べればぜんぜん城とは言えないし、かつてアタシが訪れたいろんな戦国大名の本拠地のほとんどが山城だったことを思えば、信玄の躑躅が先館は小城だとは思います。それも戦国最強武将の名を欲しいままにする大大名の本拠地としては、あまりに小規模なことは確かでしょう。


いや土塁あるし

でもやはり、躑躅が崎館を"館"と呼ぶには抵抗があります。回りは水堀で囲まれているし、土塁や石垣も見事なものです。もしこの躑躅が崎館を攻め落とそうと思っても、そう簡単に落とすことは出来ないでしょう。


防御力高いぞ?

という訳で実際に訪れてみた躑躅が崎館なのですが、さすがに"館"と呼ぶにはハッタリが過ぎると思います。でもだからと言って、信玄が絶対ココまで攻め込まれない自信があったというのもウソだったのかと言えば、そうでも無いような気もします。信玄の財力があれば、もっと頑健立派な城を作ることも出来たでしょうからね。


こりゃあ立派な館です

ってことはもしかして・・・実際に信玄の躑躅が崎"館"を訪れた敵国人が、
「なんだ信玄殿も人が悪い、城などいらないと言っておきながら、こんなに立派な城を持っているではないですか」
などと言ってきたときに、
「え?キミの国はこの程度でも城扱いなの? いやーオレのレベルだとこの程度では城じゃあなくて館だよ。」
などというセレブ自慢がしたかったのかもしれませんねw

躑躅が崎館
山梨県甲府市 JR甲府駅から2kmくらい


深沢城 〜地黄八幡と戦国最強武将の死闘

かつて戦国最強武将・武田信玄と、我らが地黄八幡・北条綱成が死闘を繰り広げたという戦国ファン垂涎のスポットです。
綱成と信玄の激戦の詳細については、北条綱成〜地黄八幡の旗〜をお読みいただけたらと思いますが、綱成の大大大ファンであるアタシにしてみれば、この深沢城は震えと涙が止まらない聖地なのですよ(><)


地黄八幡ファン必見!

でも残念ながら、この深沢城は、ドマイナーです。なんにせロクな案内看板も出ておらず、アタシもココまで辿り着くのには物凄く苦労しましたし、まともな駐車場の一つもありませんでしたから。


車とともに

でもこの深沢城の戦いに関する知識があれば、超胸熱エピソードに血肉湧き踊ること間違い無しですよ。
タダでさえ守将があの地黄八幡、寄手は戦国最強武将という豪華キャストです。そのうえ信玄が挑戦状を矢文にして射ち込んだというエピソードもあれば、シビレを切らして金山衆を呼び寄せて地下道掘削作戦などという前代未聞の大作戦まで行っているのです。


かかってこい信玄!

その後、援軍無き籠城戦を強いられた綱成がついに深沢城を開城するにあたり、信玄に地黄八幡の旗を奪われて、またそれに対する信玄のコメントもカッコ良かったりと。とにかく深沢城攻防戦とは戦国のロマンが一挙に凝縮されている城なのですよ。


あの土塁を超えろ!

そんな深沢城を訪れたのですから、想像すること思いを馳せることが多すぎて、困ってしまいました。本丸を見上げながら綱成の堅固な守備に歯ぎしりする信玄・・・待てども待てども援軍が現れない綱成・・・金山衆はどこから穴を掘ったのか?はたまたそれを綱成はどうやって撃退したか?
不幸中の幸い、深沢城はマイナーであるが為に、遺構はしっかり残っていながらも、戦国期を忍ぶのにちょうどよく、ひっそり静寂な空間を保っております。


戦い終わって・・・

大好きな二人の戦国武将が死闘を繰り広げた激戦地深沢城・・・こんな場所を訪れた時、歴史オタをやってて本当に良かったと思います。


深沢城
静岡県御殿場市


第二章 源朝頼の足跡を追って


蛭ヶ小島 〜藪につついた鬼夫婦〜

かつて源頼朝が20年にも渡る流刑に処されていた土地がこの蛭ヶ小島です。
もっとも流刑とは言ったものの、その行動はかなり自由だったらしく、近隣の若手武士たちと交流を深めたり、豪族の姫様にちょっかいをかけていたりしたようです。九度山に流された真田父子などとは違い、特に生活に不自由することは無かったみたいですね。


現在の史跡公園

実際にこの蛭ヶ小島地を訪れてみて思ったのは、なんともまあのんびりマターリな田舎空間だなということでした。


仲睦まじきかな

そんな片田舎な蛭ヶ小島には、そんな頼朝政子夫妻を祭った公園があったりします。
この石造の二人はなんとものどかな田舎夫婦的ほのぼの感で、とてもじゃないけどこれが、後に武家政権確立のために一族を殺しまくった夫と、一族を守るために、自分の腹を痛めて生んだ息子を殺した鬼嫁の夫婦に見えることはありませんでした。


いい感じの茶屋があったり

のちに頼朝は平清盛による源氏追討令のために切羽詰って旗揚げし、この蛭ヶ小島を脱出して波乱万丈の天下統一譚の主人公となったのはご存知のとおりです。
でももしも、清盛がそんな余計なことをしなければ、きっと頼朝は年下の嫁さん政子と一緒に、ゴロゴロ自給自足な田舎武士生活に甘んじていたのではないでしょうかね?


お茶でもマターリいかがでしょう?

蛭ヶ小島
静岡県韮山市


石橋山 〜急転落下の青い海〜

さて政子との甘い夫婦生活から一転し、頼朝は伊豆の代官・山木兼高を血祭りに挙げて旗揚げすることになります。
初戦を見事白星で飾った頼朝は、平家の世を嫌う、自分の仲間になってくれそうな武士が多くいるであろう坂東の地に向けて出発します。


まさかココが戦場になろうとは・・・

箱根の山を抜け、相模湾を見下ろしながら東海道を進む頼朝も、この海の青い輝きに見ほれていたのでしょうか?


敵が現れただと!?

実際の歴史では、300の武士を率いる頼朝はこの石橋山にて大庭景親率いる3000の武士と遭遇し、フルボッコのメッタ負けで命からがら逃げ延びるという悲劇に見舞われております。


生き残ったのはわずか6人・・・

そんな悲劇の石橋山ですが、実際こうして眼下の海を眺めていると、きっと頼朝は海の向こうにある新天地を臨み、大いなる希望を胸に抱いて進軍していたんだろうなということが想像できました。


海はあんなに綺麗なのに・・・

でもなればこそ、そんな意気揚々な道中にてその希望を木っ端微塵に打ち砕かれた頼朝の絶望感はひとしおだったことでしょう。
これ以上にない絶対絶命な状況から奇跡の大逆転を演じた頼朝に対し、今まで以上の敬意と愛情を抱いた石橋山でした。

石橋山古戦場跡
神奈川県小田原市 国道135号線 石橋インターそば


しとどの窟 〜絶対絶命からの生還〜

石橋山からなんとか逃げ延びた頼朝一行が身を隠していたと言われているのが、現在の湯河原温泉の奥地にある、しとどの窟と呼ばれる洞窟です。


命からがら逃げ延びて


石橋山から10キロばかし、頭文字Dも真っ青になりそうな山道を走った先にあるこのしとどの窟。車でその入り口に通じる道まで来るのも大変でした。


見つかったら大変だ(><)

しとどの窟までは車を停めてから更に15分ばかし歩くのですが、その道のりも超疲れる厳しい道中であることは言うまでもありません。
カバンに水とデジカメを入れただけの軽装備で、しかもそれなりに整備された山道を歩いていても泣きそうなのに、増してや鎧を背負って道無き道を敗走していた頼朝がどれだけ大変だったのか、まったくもって想像もつきませんよ。


ココまで来れば追ってこれまい・・・

そうして命からがら逃げ延びて来たこの小さな狭い洞穴の中で頼朝は、自分を探すために山狩りに来た平家方の武士が
「どこだどこだ!?」
「探せ探せ!」
などとわめいている声まで聞いているはずなのです。
その恐怖、絶望感は、どれだけ大きいものだったことか・・・想像しただけでチビってしまいそうですよ。


そこに誰かいるのか!?

そんな恐怖の絶望の監獄にてあと一歩の危機一髪な状況を救ってくれたのが、梶原景時という武士でした。
見てのとおりこのしとどの窟は、タダでさえ何も無くてもお化けの一匹二匹はいてもおかしくないようなおどろおどろスポットです。こんな状況から自分を救ってくれたのですから、頼朝が梶原景時のことを完全に信頼しきって寵愛したとしても、それは無理の無いことでしょう。


なんだ気のせいだったか・・・

後に梶原景時に対する他の御家人たちからの妬みの声は頼朝にも入ってきます。
「だったらお前らも一回、あのしとどの窟に5日間ガクブル状態で隠れてみて、あと一歩で殺される直前で助けられてみろ!そうしたら俺の気持ちがわかるから」
そんなふうに言えばきっと御家人たちも納得したんじゃないかななどと、そんなことを思ってしまったしとどの窟でした。

しとどの窟
神奈川県湯河原町 椿ライン奥地

しとどの窟で九死に一生を得た頼朝一行はその後、山を降りてすぐさま船に乗って安房(房総半島南部)へと渡って行きました。
アタシもそれと同じく船に乗りたかったところなのですが、残念ながらそんな船は無いので、アタシの安房行きについては、三浦半島の久里浜からの出港となってしまいました。

そんでもってアタシの頼朝を追うツアーはこの安房上陸をもって終了です。安房に渡った後の頼朝については、これといったピンチも無く、すんなり地固めを行っていたようですので、もうこれ以上頼朝のことを見守ることも無いかなと、アタシはアタシの旅に出ることにいたしました。
安房に上陸してからのアタシの足取りについては、第三章・思い出の九十九里浜をご覧いただけたらと思います。


第二.五章 伊豆半島探索


韮山城 〜好々爺な梟雄の居城〜

アタシが大大大好きな北条早雲が本拠地としていた城です。
後に北条氏の本拠地として巨大城郭となる小田原城も、早雲の時代にはすでに北条氏のものだったのでした。でも早雲はなぜか交通の要所にありなおかつ堅固な小田原城を本拠地とすることはなく、終生この韮山城に住んだのでありました。


なぜこの場所に?

韮山城の眼下に広がっているのは、かつて源頼朝が流罪とされた地である蛭ヶ小島です。ということは、早雲が本拠を構えたこの韮山の地というのは、流罪の地に選ばれるほどの辺鄙な田舎ということなのです。
ちなみに↓写真ので囲ったあたりが蛭が小島の史跡公園です。


のどかな城下

北条早雲ともあろう者が、なぜこんなド田舎を本拠地に定めたのか? 考えれば考えるほど不思議です。後の北条王国の礎となる小田原城もあることだし、沼津とか箱根とか他にも要衝となる場所なんて領国にいくらでもあるというのになぜ韮山なのか?本当に謎ですよ。


本丸跡もコンパクト

あえて言うなら・・・早雲は終止謀略と戦乱に明け暮れているんだから、せめてオフの日くらい、その居住地ではゆっくりまったりと過ごしたいとか、そんなことを考えていたのかもしれません。


土塁は結構残ってました

そして日曜日にでもなれは、この城池でヘラブナ釣りでもしていたのかもしれませんね。


釣り人いっぱいの城池

また、北条早雲といえば、年貢率を下げて疫病撲滅にも勤め善政をしいたことでも評判です。そんな領民思いな早雲の本拠地としては、なるほど確かにこの韮山はしっくり来るような気がします。


韮山城
静岡県韮山市 韮山中学校裏


韮山反射炉 〜日本人の底ぢから〜

幕末にペリー率いる黒船艦隊を見て恐怖おののいた江戸幕府が、慌てて黒船に対抗するために作った製鉄所がこの韮山反射炉です。


さあジャンジャン燃やせっ!

ドロ縄式の付き焼き刃で建設することになったこの反射炉ですが、江川英龍という天才の手によって、わずか3年半で見事に完成してしまいます。


江戸の生んだ天才・江川英龍

その後はこの韮山反射炉で西洋式の大砲をジャンジャン製造し、なんとかペリーその他の外国海軍に対してカッコをつけることができたのでありました。


これであと10年戦えるっ!

さて教科書にもあまりでてこない話ですが、この韮山反射炉の製造完成にまつわる話は、日本という国の長所と短所を見事に表しております。
外圧が加わって初めて製造されることになり、
トップはアタフタしていたのに、現場の生え抜きがハイクオリティな仕事をし、すぐさま西洋のコピー品を簡単に作り上げ、
その現場指揮官はアホな上層部に妬まれて失脚しかけた過去があったりと、
まあなんとも日本らしいではありませんか。


我が日本の誇り

右も左もロクに西洋文明を知らなかった日本人が、見よう見マネで(世界史的レベルで見れば)いとも簡単に作り上げてしまったこの韮山反射炉。ここには日本人のエッセンスがギッシリ詰めこまれております。

韮山反射炉
静岡県韮山市


外 伝 


魚藍亭・よこすか海軍カレー館 〜日本を救った海軍カレー〜

海軍カレーで有名な町横須賀にはなんと!明治41年当時の日本海軍で使われていたレシピを再現したカレーを食べさせてくれるという店があるのです。


その名もよこすか海軍カレー館

さすがに旧海軍のカレーそのままをウリにしているだけあって、店構えにも威厳があります。


艦内通路を抜けて

思わず店に入るときに直立して敬礼しそうになってしまいましたね。
店員さんはセーラーとも士官服ともとれるカッコいい服を着ているし、本当に戦艦内の士官用食堂に来ているような気分にさせられました。


これが噂の海軍カレー

注文したのはもちろん、旧日本海軍で食べられていたものと同じというカレーです。
事前にネットの評判を見ていた限りでは、このカレーはあくまで再現度がウリなのであって、美味しいかどうかというと微妙という声が大勢的でした。かくいうアタシ自身も、味そのものには大して期待していなったのですが、いざ実際に食べてみた感想はといえば、かなり美味しかったです(^^) 昔ながらの給食っぽいカレーをもっとマイルドなめらかにした感じで、アタシの好みにはピッタリでした☆
もしもこのカレーがうちの職場食堂にあったのなら、週に1回くらいは必ず注文しておりますね。


店のふいんきは本当におしゃれ

明治時代の日本と言えば、まだまだ国全体が貧しくて、国民みんなが食べていくことだけにやっとこさっとこな時代でした。でもその中でも軍隊というところは、とりあえず入っておけば食うには困らない場所だったのです。だからおまんま食うために兵隊になっておこうなんて農家の次男坊三男坊が溢れかえっていたのです。
そんな時代…まともな銀シャリさえロクに食べたことの無い農民上がりの兵隊が、初めてこの海軍カレーを食べたときは、いったいどれだけ感動したことでしょう? 冗談抜きに、この海軍カレー、カレーがあるから兵隊になれる、カレーがあるから戦える、カレーがあるから死ぬわけにはいかない負けられないってくらい、水兵さんたちのパワーの源だったのではないでしょうか?
日本海海戦で日本軍が大勝利を収めることが出来たのは、きっとこの海軍カレーあったればこそで間違いありません。

魚藍亭よこすか海軍カレー館
神奈川県横須賀市 ドブ板通りそば


第三章へ続く


戻る

inserted by FC2 system