九度山・真田庵 〜魂は朽ち果てず〜 (2013.9.19)

日本一の兵と称えられ、絶大なる人気を誇る戦国武将の真田幸村が一番長い時間を過ごした場所は、もしかしてココ紀州九度山の真田庵かもしれません。
信長の野望シリーズや無双シリーズを見るまでもなく、真田幸村と言えば戦国最強武将と言ってもイイ評価を得ておりますが、実のところその実働期間はそれほど長くはありません。その49年の生涯のうち、なんと14年間はこの九度山での幽閉生活を送っているのです。


エラくローカル

関が原の戦いで破れた真田昌幸、幸村父子は、東軍についた兄・信之の必死の嘆願によってなんとか一命は得られたものの、領地は全部没収されて流刑処分となりました。その流刑地こそが、この紀州九度山だったのです。


九度山の里

昌幸幸村父子は流刑の罪人の身分とはいえ、比較的自由に暮らしていたようです。実際に九度山を訪れてみて分かったのですが、「山」と言っても案外ふもとの方で人里離れた感じではありません。それにそもそもなぜ昌幸幸村父子がこの九度山に住んだのかと言えば、本来は女人禁制の高野山に流されるはずだったのが、妻子を連れていたためにこの九度山に来たというのですから、家族も一緒の生活だったということです。罪人という足枷さえなければ、気ままな隠居生活といってもイイ感じです。


こんな庵に住んでおりました

もっとも生活は楽では無かったようで、昌幸は信之にお金を無心する手紙を何度も送っており、「酒を貰ってうれしかった。」「鮭を貰えてありがたかった。」などという手紙も書いております。でもそんなことよりも、かつては智勇兼備の将としてバリバリ鳴らせていた昌幸にとっては、関が原での屈辱を晴らす機会が失われたことが何よりもキツいことだったのではないかと思います。


まったりな庭園で

昌幸と幸村は、このスローライフな真田庵にて、いったい何を考え語って暮らしていたのでしょう? きっといつか来るであろう徳川豊臣の戦に備え、戦談義に明け暮れていたのではないかと思います。それも打倒家康を一筋に。
実際、幸村は大阪の陣に際しては莫大な恩賞を約束してくれた東軍には味方せずに大阪城に入り、14年間のブランクをものともせずに真田日本一の兵と称えられる大活躍をしたのですから。


真田の想いは今にも伝わる

一見すると、楽々隠居が出来るだろうのどかな九度山の里です。でもそんな堕落生活を10年以上続けながらも昌幸幸村父子は、決して牙も爪ももがれることが無かったのです。しかも大阪の陣に際しての幸村は、もう48歳という老齢です。(昌幸は3年前に死去)何もそんな大博打に出なくてもイイだろう今更豊臣への義理を果たさなくても誰も何も言わないだろうというくらいの時間は経っているのです。

アタシは正直なところ今まで、真田幸村はちょっと過大評価されすぎかなと思わないでもありませんでした。でもこの侘び錆び茶室のような真田庵をみて、改めて幸村の凄さが実感できました。やはり真田幸村は、戦国最強クラスの勇将という評価で間違いはありません。

九度山・真田庵
和歌山県九度山町



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