※山崎古戦場からの続きです。
齢27にして木曽の山奥で旗揚げして以来、波乱万丈の3年間の人生を駆け抜けた木曽義仲の最後は琵琶湖のほとり、粟津の地で訪れました。
一度は京の都を制圧し、朝日将軍と呼ばれた義仲もその最後はわびしいもので、その最後の場面に付き従っていたのは乳兄弟でもある腹心の今井兼平ただ一騎だけだったと伝えられております。以前から義仲と敵対していた甲斐源氏の軍勢にとりかこまれた義仲らは多勢に無勢、あえなく討ち取られてしまったのです。
木曽義仲ここに眠る
その義仲最後の地である粟津にはそんな悲劇の人生を歩んだ義仲の眠る義仲寺があります。
朝日将軍よ安らかに
また、そこから2kmほど離れたところには、義仲四天王が一人、今井兼平の墓もあります。
今なお伝わる豪傑の墓
この今井兼平という人物、義仲に最後まで付き従っていただけあって物凄い剛の者にしてすばらしくカッコいい人物です。その散り様は平家物語に書かれているところによれば、いよいよ義仲の最後が訪れようとしているとき、義仲が兼平に
「どうせだったらバラバラになるより一緒に死のう」
と弱気を見せたところ、兼平は義仲に、
「もし名も無い郎党に討ち取られでもしようものなら末代までの恥となります。この兼平が時間稼ぎをしますので殿はあの松原で自害くださいませ。」
と返したのです。
しかし兼平の助言もむなしく義仲が討ち取られてしまうと兼平は、
「東国の者どもよ、これが自害の手本だよく見ておけ!」
と叫ぶと、口に刀の切っ先を加えて馬から飛び降りるという壮絶な自害を遂げたのでありました。
なお上記は当方の意訳ですが、この場面の平家物語原文の美しさは類を見ませんので、興味のある方は是非お読み頂きたいところであります。
死後も義仲と共にいてほしいです
また、義仲寺にはなぜか松尾芭蕉の墓がすぐ隣に立っていたりします。
なぜこんなところに?
アタシもここに来るまで知らなかったのですが、なんでも松尾芭蕉は木曽義仲のことをいたく好きだったようで、自分の死後は木曽義仲の墓の隣に葬ってほしいと遺言していたそうです。
芭蕉の木に囲まれて
ここ最近になって木曽義仲のファンとなったアタシとしては、その話を聞いてなぜか少しうれしい気分になりました。
義仲寺
滋賀県大津市馬場1丁目5
今井兼平の墓
滋賀県大津市晴嵐2丁目4
※その後は琵琶湖畔のうなぎ屋さん・かねよで食べて、大津市に泊まりました。
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