吉田郡山城は安芸(広島県西半分)の内陸山間部にある厳島の戦いの立役者・毛利元就の居城です。 こっちは宮尾城と違って立派だな 吉田郡山城と厳島の戦いの知名度を比べた場合、まず間違いなく後者に軍配が上がることでしょう。戦国ファンでなければ厳島の戦いと毛利元就のことは知っていても、吉田郡山城なんて名はまず聞いたことが無いんじゃないでしょうか? 典型的な山城ですね というのは、毛利氏は戦国末期には本拠地を海沿いの広島城に移してますし、更に関ヶ原の後には安芸国自体が領国では無くなっておりますからね。 でもそんなマイナーな地位に転落してしまった城だからこそ、安芸高田市は一生懸命観光資源として整備しているのでしょう。 わざわざそんなことをしなくても人が来てくれる厳島とはエラい違いですね。 古びた石垣跡がイイ感じ さてこの吉田郡山城の主である毛利元就の毛利氏なのですが、その出目は鎌倉幕府の重鎮であった大江広元の末裔とされてはいるものの、戦国時代には国人小領主でした。 なんでこんなに(略 なので吉田郡山城とは、よくいる土豪の小さな山城でしかないのですよ。 本丸、二の丸の連郭がよくわかりますね。 そんな小領主・毛利元就の小さな山城に、大大名・尼子氏の30000の軍勢が押し寄せたことがありました。 ちょっと広い本丸跡 毛利元就は近隣農民までも動員して7000の兵で籠城し、尼子氏の対抗大勢力である陶晴賢の助けを借りて見事、尼子の大軍を撃退したのでありました。 本丸跡から見下ろした連郭 その後、元就は持ち前の武勇と知略でどんどん勢力を拡大して行きます。 先に紹介した籠城戦において共闘した陶晴賢を厳島の戦いで葬り去り、吉田郡山城を大軍で包囲した尼子氏の月山富田城を逆に大軍で包囲し返して落城させるに至り、元就は中国地方の大大名としての地位を確立したのでありました。 吉田郡山の町を見下ろして 毛利元就と言えば三本の矢のエピソードが有名です。 このエピソードだけを見ると、毛利元就とは人と人との繋がりを何より大事にした恩情溢れる人物のように見えますが現実はその逆です。数々の謀略を持ってしてライバルを葬り去り、謀神と呼ばれた元就は、子供たちに常日頃このように言っておりました。 「我が毛利家のことをよく思っている者など、他国はおろか安芸の国にすら1人もいない。よくよく用心せよ。」 でもそんな元就だからこそ、謀略によってライバルの君臣兄弟一族の絆を次々に引き裂いて行った元就だからこそ、兄弟一心とならなければ毛利家を守れないということがイヤというほど分かっていたのでしょう。 そんな元就の座右の銘は・・・ 百万一心・・・吉田郡山城の拡張工事をするときに、元就はこのように彫りこんだ石を一柱に変えて石垣の下に埋め込んだそうです。 謀神よやすらかに・・・ 人と人との繋がりが何よりも大事なものであるという信念のもと、人と人との繋がりを引き裂き続け、謀神とまでに呼ばれた英雄は、吉田郡山城に眠っております。 吉田郡山城 広島県安芸高田市 ◆◇◆ お便り感想♪お待ちしております(^^) ◆◇◆ |