山木兼隆館跡 〜ショボすぎ頼朝のデビュー戦〜 (2021.11.27)


来年の2022年大河ドラマの主人公が鎌倉幕府第二代執権・北条義時ということもあって、昨今は本屋さんに鎌倉時代本をたくさん見かけるようになりました。
アタシはもともとこのへんの時代には多いに関心を持っていたものの、かつては一般書店の歴史コーナーにおける鎌倉本のラインナップが少ないことを残念に思っていたので、この傾向は非常にイイことだと最近は鎌倉時代本をたくさん購入読破しているところであります。
そんなプチ鎌倉ブームがアタシの中に訪れているところで、そういえばかつて7年ほど前に伊豆方面に源頼朝を偲ぶ旅をした際に物凄い重大な忘れものをしていたことをふと思い出したのです。


7年ぶりに訪れた蛭ヶ小島

あのときなぜあの場所に寄らなかったのか? 道中には結構その場所の方向を示す看板を見かけていたのになんでスルーしてしまったのか? 今となっては自分でもよく分かりません・・・でもでもでも、今になってそのことを思い出し、自分の中での鎌倉熱が燃え上がってきたからには行かない訳には行きません。てことで急遽この山木兼隆館跡攻略作戦が実行されることになりました。

山木兼隆・・・この名は一般的には殆ど知られていないかと思いますが、全国1000万源頼朝ファンなら知らない人はいないであろうこの一介の地方豪族が何者かと言うと、反平家の旗を揚げた頼朝が、一番最初に血祭りに上げた人物なのです。


蛭ヶ小島の鬼夫婦

今でこそ名門源氏の血を引く高貴な御曹司なイメージの頼朝ですが、果たしてこの1180年の旗揚げ当時もそうだったのかと言えばそんなことはありません。それは後に頼朝が鎌倉幕府初代将軍として天下人になったからこそのことなのです。ならば斬首された謀反人の子として流罪人の身分にされていた旗揚げ当時の頼朝の実際はどうだったのかと言えば、近所の豪族の娘にちょっかいを出して孕ませてしまったがために危うく殺される程度の存在でしか無かったのです。



頼朝政子夫妻と一緒に富士山を見る

伊豆の片田舎の蛭ヶ小島に流刑となっていた頼朝にはいちおう代々の家人はいたものの、それもせいぜい10名程度。その生活費は叔母である比企尼という人物の仕送りに頼っているような有様だったのです。


いざ出陣!

細かい経緯の説明は省きますが、(詳しくは源頼朝物語をお読み頂けたらと思います)頼朝は平清盛が発した源氏追討令のとばっちりを受けて止むに止まれず反平家の旗を揚げることになります。


目指すは山木兼隆館!

このとき頼朝の最初のターゲットになったのが、平家の代官として伊豆・蛭ヶ小島を治めていた山木兼隆だったのでした。


山木兼隆の首はまだか!?

のちに平家を倒し武家政権の礎を築くことになる頼朝の打倒平家デビュー戦であるこの山木兼隆館襲撃ですが、これが後の世に「戦」とは呼ばれずに「襲撃」と呼ばれるだけのことはあり、ずいぶんと小規模な討ち入りだったようです。正確な参加人数は分かりませんが、頼朝軍の総勢は多く見積もってもせいぜい30人程度だったのではないかと思われます。


しょうがない援軍を出すぞ!

なにしろ遠目に山木館を見守っていた頼朝が、なかなか火の手が上がらないことに業を煮やし、側近の3名を援軍として送ったという記録が残っているくらいですからね。


敵将、山木兼隆討ち取ったり! ※この岩が山木兼隆館跡の碑です

ともあれ、襲撃はなんとか成功に終わり頼朝軍は見事、山木兼隆を討ち取ることに成功したのでありました。その後の展開につきましては、7年前の頼朝を偲ぶ旅の記事、あるいは源頼朝物語を読んで頂けたらと思います。


今も昔も変わらぬ蛭ヶ小島

ってことで7年ぶりに訪れた蛭ヶ小島なのですが、その姿はそのときと殆ど変わっていないことに密かな喜びを覚えました。平成から令和に目まぐるしく変わる現代の7年間ですらそうなんですから、14歳でこの蛭ヶ小島に流されてきた頼朝にとって、34歳で旗揚げをするまでの20年間はどんなにか気の遠くなるような長い時間だったのではないかと思います。


大河バブルは来るのでしょうか?

我々は後に頼朝が平家を倒し、日本史上初の武家政権を築いたことを知っています。なのでこの山木兼隆館襲撃は頼朝にとって当然の結果の勝利のように錯覚してしまいそうなところです。ですが当時の人々にしてみれば、
「頼朝が平家を討とうなど、富士山と背比べをするようなものだ」
と嘲笑されるようなことだったのです。
失われた20年間の鬱憤を晴らすべき出撃した頼朝一行は、果たしてどんな心持でこの山木兼隆館に出撃して行ったのでしょう?  

イチかバチかのヤケクソ出陣だったのか? 
それとも確たる勝算があってのものだったのか? 
兵は迅速を持って尊ぶとばかりに疾駆しって行ったのか?
それとも兼隆に見つからないようにソロリコッソリ行ったのか?
側近郎党とは道中どんな話をしていたんだろ?
負けたらどうしよう死ぬしか無いなと震えていたのか?
兼隆を倒したあとのバラ色の未来を想像していたのか?
暗がりの中で貴重な旗本3人を援軍に送ったときはどんなに心細かったのやら・・・
館から火の手が上がるまではマジで生きた心地しなかっただろうなあ・・・

そんなことを考えながら蛭ヶ小島から山木兼隆館まで20分ほどの、もしかしたら頼朝一行も同じところを通ったかもしれない小道を歩いてみるのはなんとも感慨深くも面白いものでした。


山木兼隆館跡
伊豆の国市韮山山木820の5

※館跡の碑は物凄く分かりにくい場所にあります。
金網写真の坂を100mほど上った先にある門みたいなとこのすぐ裏側です。


これまた7年前と変わらない

さて7年前にこの地を訪れた際に印象深く覚えていた、蛭ヶ島茶屋という非常に感じ居心地のイイ茶屋が今も昔と変わらぬ姿で旅人をもてなしてくれておりました。


成祈餅と味噌おでん

それにしてもまさか7年前に買って今でも愛用している柿の葉しおりが今も当時と全く同じデザインで売っていることにビックリです。
蛭ヶ島茶屋のおじさんおばさん☆10年後くらいにまた遊びに来るんでそれまで元気でいてくださいね(^^)


蛭ヶ島茶屋
伊豆の国市四日町17の1

オススメ度/★★★★★


途中、北条早雲の韮山城にも立ち寄りました。

お昼ごはんは新東名高速道路・駿河湾沼津SAで駿河湾丼を食べました☆


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