富山城・佐々成政 〜立山連峰に通す意地〜 (2019.2.24)

戦国の世に厳寒の立山連峰・通称北アルプスを踏破したアルピニストがおりました。その名を佐々成政と言います。
佐々成政は若かりし頃から織田信長の親衛隊を務めながら順調に武功を重ねて出世して行き、やがて富山城主として越中(富山県)一国の支配を任されるほどの織田家重鎮となりました。


佐々成政の富山城

成政が富山城主として越後の上杉景勝との間で激闘を繰り広げ、ようやく上杉方の重要拠点である魚津城を攻略した直後に本能寺の変が勃発します。
その後は織田家の後釜をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が対立することになり、その他織田家の家臣は秀吉につくか勝家につくかという究極の選択を強いられることになるのですが、(詳しくは天下人物語を読んでください☆)このとき、成政は迷わず柴田勝家の味方をすることに決めたのです。


現在の富山市の中心部にあります

この羽柴秀吉と柴田勝家の抗争の結果は、以前に天下人物語で書いたとおり、秀吉の勝利に終わります。このとき勝家側についた佐々成政は剃髪して秀吉に詫びを入れることで、なんとか越中一国と富山城を失わずにすみました。
それから2年後、今度は秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いという天下人最終決戦が始まり、またも全国の大名が秀吉につくか家康につくかの二者択一を迫られます。このとき成政は最初は秀吉に従う姿勢を見せながらも、最終的には家康側につく決断を下し、隣国能登の親秀吉派大名・前田利家の末森城に攻撃をしかけたのです。(詳しくは末森城の巻を読んでみてください☆)
・・・で、この天下分け目の大戦・小牧・長久手の戦いは、最終的には秀吉と家康が和睦するという形で決着したのですが、成政はその裁定にどうにも納得することが出来ませんでした。

「我が主信長様があと一歩で手が届くところまでに築き上げた天下一統の夢・・・それをたかだかサルごときにかっさらわれるなど絶対に許せん!」

成政はきっとこのように思ったのではないでしょうか?
最初に書いたとおり、成政は若い頃から織田信長親衛隊の一員として黒母衣を身にまとって戦場を疾走していたエリート武者です。かたや秀吉はそんな成政を見上げ徒歩で追いかけていた雑兵あがりの成りあがり者です。信長配下時代にすでにその身分は逆転していたとは言え、やはり成政にとっての秀吉とは、戦場をへーこらはいずり回っていた雑兵という意識がどうしても拭えなかったのではないでしょうか? 羽柴秀吉という男の実力をまざまざと見せつけられ、頭では秀吉の凄さが分かっていながらも、やはり感情の部分ではそんなサルごときの軍門に下るという現実は、とうてい受け入れられないものだったのではないでしょうか? 


俺とて一国一城の主だ!

そこで成政がとった行動とは・・・なんと!厳寒の北アルプスを超えて、浜松の徳川家康の下に赴き、もう一度秀吉の戦いを挑むよう説得するというものだったのです!
冬の北アルプスを踏破するなんてことは、現代ですらベテラン登山家が完全装備で挑んでやっとこさなんとかなるというシロモノです。それを登山道や地図もロクに整備されておらず、ライトや防寒具といった装備品もロクにない戦国時代の武者がやってのけたというのだから凄いものです。
佐々成政はなぜそうまでして北アルプスを超えたのか? そのことを想像するにやはり、利益損得の問題ではなくて、それはやはりただたんに、サルの軍門には下りたくない!という男としての意地とプライドだけだったと思うのはアタシだけでしょうか?
成政はサル許し難しの怨念と意地でこの「さらさら越え」を成功させ、なんとか家康の下に辿りついたものの、残念ながら家康を説得することは出来ませんでした・・・失意のうちに成政はまたあの厳寒の北アルプスを超えて富山城に戻って行ったのです・・・


この平城を囲まれてはキツい・・・

さてその後の佐々成政なのですが、秀吉率いる10万の大軍に富山城を包囲されて完全敗北を喫し、その領地のほぼ全てを没収されることになりました。それでもやはり佐々成政はさすがは織田信長に越中一国を任された男です。後に秀吉による対島津の九州征伐に従軍して多大なる武功をあげ、肥後一国を与えられて復権します。
・・・が、その肥後の統治に失敗し、結局は肥後の国を取り上げられて切腹を言いつけられたのでありました。

この佐々成政という人物、意地とプライドが邪魔をして天下人羽柴秀吉という現実を受け入れることが出来きずに身を滅ぼしたバカな男に見えますが、アタシはどうにも嫌いになることができません。

「意地を通すのは不便なものよな」

とはマンガ・花の慶次に登場した佐々成政のセリフですが、富山の町から南を望みそびえる立山連峰を見ていると、佐々成政という男の通した意地と執念がいかに凄いものだったかを思い知らされました。


逆光で見にくいですが、とにかく凄い大連山です

そんな佐々成政から取り上げられた富山城は、のちに加賀藩の支藩の城として前田利家の子供に受けつがれることになります。


現在の富山城は前田家によって整備されました

この前田利家と言う男は、佐々成政とほぼ同年齢にして、同じく母衣衆として名を馳せた、いわば信長近衆のライバル同士と言えます。利家は成政とちがって若い頃から秀吉とよしみを通じ、後に秀吉が天下人となったあとはアッサリ秀吉の風下に立つことをよしとして加賀100万石の礎を築いたのはご存じのとおりかと思います。
不便な意地を通し続けた成政と、つまらないプライドを持たなかった利家・・・なんとも対照的ではありませんか。


富山城
富山市本丸1の62


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