館林城 〜綱吉の夢見た文治のお城〜 (2022.9.9)

日本一暑い場所として知られる上州館林市の館林城。戦国期にはあまり話題になることはありませんでしたが、江戸時代には江戸幕府史上・・・いや日本史上でも指折りの偉業を成し遂げた人物を輩出した地として重要視されておりました。
館林城を足掛かりに将軍職までのし上がり、武断の世を文治の世に造り替えた人物のその名は徳川綱吉と言います。ってことで今回は、最近は再評価が進んで来たものの、かつては「生類憐みの令」を発した犬公方との悪名が高かった徳川綱吉のお話です。


綱吉はもともと館林城主

第三代将軍・家光の三男である徳川綱吉はもともと将軍になる予定の人物ではありませんでした。
家光の跡を継いだ長兄の第四代将軍家綱が子供を残さず早世してしまいました。そのうえ綱吉にはもう一人、綱重という次兄もいたのですがその綱重も、家綱のわずか2年前に亡くなっていたという、綱吉的に見た幸運が重なっての将軍就任だったのです。


いちお土塁もありました

このように、本来予定していたのとは違う人物が後継者となった場合、それが大きな家であればあるほど、二つの大きな問題点が出てくるものなのですが、綱吉の将軍就任はまさにその例に漏れないものでした。
まず一つ目の問題点。それは本来の後継者用に用意されていた家臣団と、予定外の後継者が引き連れてきた子飼いの家臣団が対立してしまうことです。これはお家騒動と全く同じ構図なので、本サイトの常連さんならすんなり分かって貰えるのではないかと思います。
それをこのときの将軍家に当てはめてみると、それまで家綱の大老として権勢をふるっていた酒井忠清が罷免のうえその弟が改易、その代わりに自分の将軍擁立に尽力してくれた堀田正俊をとりたてたものの、その正俊も後に反対派に暗殺されてしまうという混乱がありました。
その後は綱吉の館林以来の右腕ともいえる柳沢吉保が側用人として権勢を奮うようになるのですが、この人ももともとの老中たちと対立して悪評を振りまかれているところであります。


館林城の防御の要・里沼

そしてもう一つの問題点・・・それは予定外の後継者は周りの連中に侮られないためについついハッスルしすぎてしまうことです。また、本来の後継者ならばもともとの教育係としての小うるさい爺的存在がいるものですが、特に綱吉のように分家から本家に収まるような場合はそういううるさいヤツを分家に置いてくることが出来るので、ますます歯止めが利かなくなってしまうのではないかと思います。
綱吉は生類憐みの令のほかにも、元禄の貨幣改鋳という大ナタ改革を行っておりますし、独裁者的エピソードにも事欠きません。
このような例を他に探してみると、旧家臣団と対立して対外戦争に明け暮れた武田勝頼などは上記2つの例にもろに当てはまりますね。
ハッスル例だけで言えば、14男の部屋住みから幕府大老までのしあがった井伊直弼の安政の大獄とか籤引き将軍・足利義教の独裁者っぷりなんかがまさにその典型なのではないかと思います。(おっと義教のことは今まで書いたことがありまんでしたね。その話はまたいずれ何処かで)
その逆の話でいうと、徳川吉宗が紀州藩主から八代将軍にクラスチェンジした際には、紀州派と江戸派の対立が起こらないよう、もともとの家臣は極力連れて行かないようにしたとのことです。さすがは名君暴れん坊将軍ですね。


かつての館林城

ってことで今回訪れた館林城ですが、城跡としての遺構的なものはほぼ消え去っており、その代わりに城跡には市役所跡を始め、美術館や図書館と言った文化施設で溢れかえっておりました。
特に市政の要衝、市役所が三の丸跡にあって、肝心真ん中の本丸跡にあるのが向井千秋記念こども科学館というのも何やら象徴的です。


夢のお城

また、今までに何十となく城跡を巡ってきたアタシですが、「ゆめひろば」などという名前のついた本丸広場は初めて見ましたよ。


文治の極みの城跡

戦の世、武断の世の象徴とも言える城跡がほぼほぼ姿を消して、そのあとに立ち並ぶのは平和と文化の象徴のような施設群。江戸の世に生類憐みの令などという劇薬を処方することにより文治の世を夢見た徳川綱吉が現代の館林城を見れば、さぞかし満足するのではないかと思います。


館林城
〒374-0018 群馬県館林市城町4の32 館林市役所

※2022年夏の旅にてのお話です。


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