志賀城 〜勝って兜の緒を締めよ〜 (2013/4/29)

当たり前の話ですが、海千山千老練で調略内応ドンと来い!なイメージのある武田信玄にも若かりし日というものがありました。信玄がまだ甲斐の若虎・武田晴信だった頃は、イケイケ押せ押せでとにかく力押しの戦ばかりをしておりました。もっとも晴信は野戦司令官としての才能は抜群で、当初はそれで連戦連勝を飾っており、きっと俺TUEEEEE!と自らの戦の才に酔いしれていたことでしょう。
でもそんな晴信の鼻っぱしらをへし折って、晴信を若き猛将から老練な知勇兼備の将へと成長させるきっかけとなったのが、この志賀城での戦いだったのです。


といっても城跡は残っていないんですけどね

何故志賀城には何も残っていないのか? 理由は伊達政宗の小手森城と同じです。晴信が徹底的な殲滅戦を仕掛けて志賀城を粉砕してしまったからなのです。


廃城感満載です

晴信が信濃中央部にある志賀城を取り囲むと、隣の上野(群馬県)から関東管領・上杉憲政が援軍を派遣して来ます。晴信はとりあえず志賀城の包囲を解いて上杉憲政軍を小田井原にて迎撃するのですが、なんと!首級三千を挙げる大勝となったのです。


なんでこんなに(ry

空前絶後の大勝利に酔いしれた晴信は、トンでも無いことを思いつきました。

晴信:
「よし、この三千の首を城の周りに並べて城兵に見せ付けてやれ。そうすりゃヤツらはもうビビって手出しを出来なくなるだろ」

・・・ってそれヤリ過ぎじゃないッスか晴信さん!


山の上の石垣跡

この晴信の神をも恐れぬ所業に笠原清繁以下の城兵はたちまち腰砕けになり戦意を喪失してしまいます。結果、晴信はこんな超天然の急傾斜山城をアッサリ攻略することが出来てしまったのです。


山頂の祠

この時の晴信は何かに憑り付かれていたのでしょうか? 城兵を撫で斬りにして回ったあげく、生き残った領民を片っ端から生け捕りにして奴隷として売りさばくなんてことまでしてしまったのです。


荒城の本丸跡

晴信がそんな無茶苦茶をやってしまったせいか、志賀城には案内看板どころか本丸跡にもまともな碑の一つもありません。今となっては花が咲き小鳥が歌う田舎の小山ですが、やはりその凄惨な歴史を想像してみると、何やら背筋が寒くなって来ました。
もしかして今歩いているあたへんに生首がズラリと並べられていたのかな?とかそんなことを考えると、タダでさえ急斜で危険な山道が、より一層足が滑りそうになりましたね。


これが山道なんです

もっとも、この晴信の所業は高くつくことになりました。志賀城から落ち延びた城兵たちは隣の砥石城に逃げ込んで、武田軍をさんざんに苦しめることになります。ココで止せばイイのに晴信は、志賀城攻めで抜群の功を立てた武将・横田高松を砥石城攻めにそのまま向かわせるという愚を犯してしまいました。復讐の炎に燃える志賀城残党は見事、横田高松の首級を挙げたうえで武田軍をフルボッコに蹴散らしたのでありました。これが世に言う「砥石崩れ」です。


この城下で奴隷市をやったのか・・・

また、晴信があまりに悪の限りを尽くしてしまったが為に、この佐久地方の人たちは最後まで武田家に心服することはありませんでした。遠くは二代目の勝頼が部下の統制に苦労したのは、このようなところにも原因があったのです。


ふもとから見た志賀城

後に信玄は戦というものについて、

「五分、六分、七分の勝ちを持って良しとせよ。八分では勝ちすぎ、九分、十分では味方が危うい。」

というようなことを言っております。
また、

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

とも言っております。
武田晴信はこの志賀城の戦いにおける一連の失敗により、数多くのことを学び、戦国最強武将・武田信玄へと飛翔したのです。


志賀城 長野県佐久市
上信越道・佐久インターより15分


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