山陰山陽東部攻略記 2012年7月16〜18日 その1

7月16日

一の谷(須磨浦公園) 〜大馬鹿と大天才は紙一重〜

神戸市須磨区にある、源平合戦のハイライトの一つを飾る伝説の古戦場です。
この一の谷は都を追い落とされた平家の一門が本拠を構え、正面には瀬戸内海が広がり背後には険しい山がそびえ立ち、両サイドは森に囲まれているという正に難攻不落の要害でした。これなら京都から攻めて来る源氏を迎え撃つには東サイドの森さえ固めていれば大丈夫だろうと平家は一の谷の東に広がる生田の森に守りの重点をおき、また実際、源氏の本隊もそちらから攻め寄せていたのでした。・・・が、なんと!戦の天才・源義経ひきいる別働隊が、まさか誰もこんな場所からは攻めては来れないだろと思っていた平家軍の背後に広がる断崖絶壁から奇襲攻撃をかけて平家軍をさんざんに打ち破ったのです。


伝説の舞台へ

義経が地元の猟師に対して
「この崖を馬で下ることができると思うか?」
と聞いたところ、
「ごくごく稀に鹿が下って行くことがあります」
と返されて、
「鹿が通れるなら馬も通れるだろ」

と無茶なことを言って駆け下りていった断崖絶壁は現在、ロープウエーで上まで行ける須磨浦公園となっております。


綺麗だけどこわーい

どうです?このロープウェイ。こんな断崖絶壁を馬で降りようなんて無茶苦茶だと思いません?なるほどこれは確かに平家が防御ガン無視していたのも当然でしょう。っていうかこんなところから奇襲攻撃をかけようだなんて思いつくのは、大天才か、あるいはよっぽどの大馬鹿のどちらかだろうなとまざまざ実感させられました。
で、ロープウェイを登った先にあったのがこの景色なのですが・・・


美しい、美しすぎる(><)

言うまでもなくアタシは、古戦場めぐりの一環としてこの須磨浦公園に来たわけなのですが、一の谷だの逆落としだのは関係なしに、美しく広がる瀬戸内海、はるか向こうにたたずむ四国大陸、眼下に広がる神戸の街並みにただただウットリするだけでした。

・・・でも、今はアタシたち現代の人間が美しさに心奪われるこの絶景ですが、今から900年前にはその眼科には平家の大要塞が広がり、海には幾多の軍船が浮かんでいたはずです。それを見た義経は果たしてどんな顔をしていたんでしょうね? 油断しきっている平家の姿を見て勝利を確信し、ニヤリと笑ったのか、それともこの断崖絶壁を見て、実はちょっと後悔していたんだけど今更後には引けねえって部下の前だからと強がっていたのか・・・それとももしかしたら、眼下に広がる瀬戸内海の美しさに心奪われて、一瞬戦のことなんか忘れてしまったのかもしれません。


フツーに歩くのも大変

さてこの一の谷を尾根伝いに歩いて行くと、ますます義経の奇襲作戦がキチガイじみたものだと実感させられました。こんなに細くてクネってデコボコした道を敵に見つからないように騎馬隊を率いて移動しただなんてありえねーだろ(><)いやはや本当、義経ってヤツは本当に大天才にして大馬鹿者ですよ。


何もなくても転びそうです

そんでもって実際に義経が下って行ったと言われている道を歩いて下ってみたのですが、こんなの馬に乗って降りて行こうなんておかしいって絶対(^^; そりゃあ平家の軍勢が一目散に逃げ出すのも当然ですよ。こんな絶壁を馬に乗って攻めて来るなんていう狂気の化け物集団とまともに戦おうだなんて絶対思いませんよ。


まさに断崖絶壁

なんでも一の谷にいた平家は数万の軍勢で、義経率いる別働隊は100にも満たないって話だったのですが、そりゃあこんなキチガイ集団が相手だったら、何万の軍勢がいても勝てる気がしなかったことでしょうよ。降りてきた崖を改めて下から仰ぎ見てみると、こんな無茶苦茶な作戦を見事に成功させてしまった源義経という英雄は、マジで神が時代を動かすために地上に遣わした存在だったのではないかと考えさせられてしまいました。

さて義経が奇襲攻撃をかけて平敦盛を始めとする平家一門衆を何人も打ち取ったとされる一の谷要塞跡ですが、今は多くの神戸市民が行楽に集う海水浴場となっております。もう伝説の古戦場としての面影はまるで残っておりません。よりによってこんな海水浴シーズンでゴッタがえすこんな時期にこの一の谷に来てしまったことをちょっと後悔してしまいました。これが誰もいない春や秋の砂浜だったら、もうちょっとノスタルジーにかつての激戦を想像できたんでしょうけどね。


これはちょっとな(^^;

それでも須磨浦公園の上から眺めた、真夏の青空の下に広がる瀬戸内海の美しさはこの季節ならではのものでしょう。それを思い出して、やっぱりこの一の谷には夏に来て良かったんだなと、そう思うことにしました。


夏なればこその海景色


須磨浦公園
神戸市中心部から5キロ程度


湊川神社 〜大楠公ここに眠る〜

JR神戸駅から歩いてほんの5分くらいの場所にあるこの湊川神社は、日本国随一の大忠臣・大楠公こと楠木正成を祀ろうと、あの先の副将軍・水戸光圀公が建てたという神社です。


神戸市のド真ん中です

なぜこの場所なのかと言えば・・・海から陸から押し寄せる足利連合軍50万!を相手に、負ける戦と分かっていながらも、後醍醐天皇に対する忠義の一心でわずか700の手勢で立ち向かって行った正成が、刀尽き矢折れ、最後に自刃したのがこの湊川神社の場所だったのです。
大楠公といえば、東京の皇居前に銅像が建っているほどの天皇家公認の大忠臣だけあって、さすがにこの湊川神社も大変立派なものでした。


皇居前の大楠公像

でもこの立派な本堂よりも、やはりアタシが一番心を魅かれたのは楠公自刃の地と呼ばれている場所です。


ああ、ここで楠公が・・・

何を隠そう、アタシは歴史上で一番好きな人物はこの楠木正成公なのです。それだけにこの地を訪れたアタシは思わず自然と手を合わせて平伏してしまいましたし、涙もこぼれて来ました。
そんな思い入れの深い大楠公を祭ったこの神社の報告書は、むしろ詳しく書くことができません。アタシは楠木正成最大とも言ってもいいゆかりの地に訪れながらも、この地が英雄正成が散ってしまった場所だと思うと、なんとも複雑な気分になってしまったのでありました。


大楠公よ、やすらかにお眠りください・・・


湊川神社
JR神戸駅より徒歩2分


7月17日


備中高松城 〜墓標、時を越えて〜

かつて羽柴秀吉の手によって、水攻めという珍しくも壮大な作戦によって落城させらたことで有名な備中(岡山県西南部)の城です。
この備中高松城、当初秀吉はフツーに正攻法で攻めていたのですが、城を守る猛将・清水宗治の奮戦により一向に落ちる気配がありません。そこで秀吉は沼に囲まれ近くに川が流れているというその地形を利用して、城の周りを堤防で囲って川の水を流し込んで城を沈めてやろうという大胆不敵な作戦を取ることとしたのです。
近所の農民を雇って工事を始めると堤防は2週間たらずで完成し、川の堰を落してみると見事、城のほとんどが水没することとなってしまったのです。


ココも水の底だったのか・・・

そんな備中高松城に実際に訪れてまず思ったことは、このへん一帯が水没したなんてありえねーだろ!ってことでしたね。まずは城に水を引き込んだという足守川ですが、それほど城から近いというわけでもありません。それに実際にこのへんを歩いてみても、特に低湿地な印象は受けず、ごくごく普通の田園平野地帯って感じでした。にも関わらず、成功するかどうかも分らない水攻め作戦のために周囲4キロもの堤防を作るという大工事を行うことを決断した秀吉の計算力と胆力は、やなり並大抵のものではありませんよ。


言うほど湿地かな?


こんな場所もあるけどさ

さて見事水攻め作戦を成功させ、備中高松城を落城あと一歩まで追い込んだ秀吉のもとに、トンでもない知らせが舞い込んできました。それは本能寺にて信長死すの悲報だったのです。
もしこのことが皆にバレたら大変なことになります。味方の軍には動揺が走り、備中高松城の救援へとこちらに向かっている毛利軍は嵩にかかって攻めよせてくることでしょう。でもそんなピンチの中でも秀吉は物おじすることはありませんでした。なんと大胆にも、
「間もなく信長様の援軍が押し寄せてくるから、そのとき降服してももう手遅れだぞ」
などというハッタリをカマし、みごと備中高松城を開城させることに成功したのです。
秀吉の進軍を2度にわたって撃退し、城を水没させられながらも闘志を失うことの無かった猛将・清水宗治は備中高松城を覆い囲む水の上に船を浮かべ、敵味方みなが見守る中で見事切腹して果てたのでありました。


勇将ココに果てる・・・

この清水宗治切腹の地には奇麗な花咲き乱れる石碑が建っております。
石碑の前に立って手を合わせて目を閉じると、400年の時を経てこの場所に立っている自分という存在が、なんとも不思議なものに感じられました。回りには民家が並び立ち、田園風景がひろがり、目の前には市民の憩い公園があるこの場所が、かつての大激戦地にして悲劇の場所であり、しかも水没までさせられていたというのですから・・・無念の涙を飲んだ猛将がまさに切腹して果てた同じ場所にこうして立っているというこの感覚は、なんともいいようがありませんでした。

なお、清水宗治が切腹し、毛利軍との和睦を果たした秀吉軍が引き揚げた後、信長死すの報が毛利軍に届いたのはそれから2時間後のことだったと言います。天国の清水宗治がそれを知ったら、いったいどんな想いを抱いたことでしょうね?


備中高松城
岡山自動車道・岡山総社インターより15分


月山富田城 〜埋もれた英雄の巨城〜

皆さんはこの月山富田城という城をご存じでしょうか? また、ここ出雲(島根県東部)に本拠を置いた尼子という一族のことをご存じでしょうか? おそらくは地元の人以外、戦国好きでなければこの城の存在自体知らないでしょうし、尼子一族にしても、なんとなく名前くらいは聞いたことがあるという程度のものでしょう。
でもだからと言って、月山富田城も尼子一族も軽く見てはいけません。尼子一族は英傑・尼子経久の活躍により最大時には100万石以上の勢力を張った中国地方の雄として君臨しておりましたし、その居城である月山富田城は難攻不落の超巨大城郭として名を馳せていたのですから。
ではなぜこの両者がいま一つマイナーなのかと言えば答は簡単です。それは戦国中期には毛利元就の手によって滅ぼされてしまっていたからです。その後も月山富田城自体は存在していたはいたものの、毛利一族はその後、月山富田城を特に本拠地としては使わなかったがために、いま一つマイナーな城になってしまったのです。



これは強そうだ

そんなマイナーながらも実は大大名の巨大城郭だったという月山富田城、実際に足を踏み入れてみると、なるほど確かにこれは、歴史の影に埋もれさせてしまうにはあまりに惜しい大要塞でした。
まずなんと言っても月山富田城に驚かされたのは、その裾野の広さとそれを取り囲む石垣郡の連なりです。


で、でかい!

アタシはかつて沢山の山城を見てきましたが、城郭の巨大さという点においてはこの月山富田城がダントツだと思います。まずはその要塞としての規模に圧倒させられてしまいました。


そんなにグルグルしなくても(^^;

次に本丸に続く道ですが、これはまたいつものアレです。「なんでこんなに出入りするのに疲れる場所に立てるんだYO!」ってヤツなんですが、今回はその疲れ具合のレベルが段違いでした。
なんでもこの登城口は七つ曲がりと呼ばれており、これはその名の示すとおり、七つの曲がり角があるグルグル道なのですよ。このウザさとダルさはアタシの経験上では、あの難城of難城・千早城に次ぐくらいすざまじかったです。


これで二の丸なんだぜ

そんなこんな20分ほど歩いて辿り着いた本丸跡は、もちろんいつものアレです。何もない、だがそれがいい。


いつものヤツねw

それにしてもやはり、山城の本丸からの眺めというのはイイものです。この月山富田城の本丸から下界を見下ろしてみると、不思議とどんな大軍が押し寄せてきても絶対守り切れそうな気がしてきます。こんな感覚になったのは、この月山富田城が初めてかもしれません。とにかくこの月山富田城は、安定感安心感はとても抜群だなと思いました。


落ちる気がしねえ

・・・でもそんな月山富田城も、最後は毛利元就の謀略によって見事落城させられるんですけどね。こんな名城を見事落とした毛利元就はやっぱりタダ者じゃないってことも改めて実感させられました。

さてこの月山富田城登城についてなのですが、実はちょっとした地元の人とのふれあいエピソードがありました。
新潟ナンバーの車から降りてきたアタシを見て、なんと伐採工事をしていた地元のおじさんが、アタシに
「アンタ新潟から来たんかい。春日山城と比べてココはどうかね?」
なんてことを聞いてきたのですよ。
それに対してアタシは、
「春日山城なんかよりこの月山富田城の方がぜんぜんデカいっすよ。」
と答えると、
「そうだろそうだろ。なんにせ200万石の尼子の城なんだからなあ。」
と嬉しそうに答えてくれたのです。
それから、あの向こう側の山に毛利元就が対陣していたこととか、月山富田城が落城したのは、元就の内部工作による切り崩しがあったからとか、いろいろ楽しそうに話してくれました。われわれ東国人にとってはちょっとマイナーな月山富田城&尼子一族ですが、やはり地元の人にとっては誇るべき文化遺産であり、愛すべき故郷の英雄なんですね。


月山富田城
島根県安来市広瀬町


八重垣神社 〜本当にご利益あるのかな?〜

日本神話の最高神と言ってもいい天照(アマテラス)大神の弟・スサノオが高天原を追放されて降り立った地・出雲は神話の宝庫です。有名所で言えば、スサノオが美しい娘を目の前で泣いている老夫婦を見てどうしたのかと尋ねてみると、今夜娘をヤマタノオロチに生贄として差し出さなくてはならないと言うではありませんか。そこでスサノオは一計を打ってヤマタノオロチを退治することに成功し、その美しい娘・クシナダヒメを嫁に貰いうけたという伝説があります。また、参考までにこのときヤマタノオロチの尻尾から出てきたのが、三種の神器としておなじみの天叢雲剣(アメノムラクモの剣、またの名を草薙の剣)です。
今回の遠征における宿泊地・松江からちょっと車を走らせたところに、このスサノオとクシナダヒメを祭った八重垣神社があると知り、それはぜひとも訪ねてみなければならないなと思って行ってまいりました。


フツーに立派な社ですね

・・・が、この八重垣神社、いざ実地に行ってみると、ごくごく普通の縁結びの神社で、特にスサノオやクシナダヒメにまつわる何かがあるって訳でもありませんでした。それでも縁結びの神社としては、なかなかどうしてご利益のある神社らしいので、そういう願いのある人は訪れてみてはいかがでしょうか?


でもスサノオって・・・

実はこのスサノオなのですが、後にクシナダヒメを捨てて根の国へ行き、ちゃっかり別の妻を貰ってしまっているというオチがついているのですけどね(^^;


八重垣神社
JR松江駅から車で15分


その2へ続く


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