桶狭間古戦場跡 〜2つの古戦場伝説〜 (2020.7.18)

桶狭間の戦いと言えば、日本三大有名な合戦の一つくらいに数えられているのでは無いかと思いますが、実はその合戦場が何処だったのかについては、今ひとつハッキリしておりません。
いちおう、多分ここだったんだろうという候補地に、桶狭間古戦場公園桶狭間古戦場伝説地という2か所があるのですが、どちらもあくまで"多分"ってことがアタシ的に引っかかっていたために、今まで来ることがありませんでした。
でもやっぱり、1kmほど離れたその2か所あたへんが大まかな戦場跡であったことは間違いないようです。それに今後研究が進んだところで、今以上に細かい合戦地が特定されることも恐らくは無いでしょう。
ってことで今日は決意を新たに、思い切って桶狭間を訪れてみることとしました。


・・・とまずはその前に

桶狭間古戦場跡の候補地は上記の2か所があるのですが、まずは合戦の前に織田信長が軍勢と整えたという善照寺砦跡に立ち寄ってみました。


狙うは今川義元の首一つ!

これから尾張一国の運命が決まるという戦を前に、ここで総大将の信長が配下の軍勢に激を飛ばして出撃して行ったんだなと思うと胸が激熱でしたね(><)


ここが候補地その1

善照寺砦跡から3kmほど南東に行くと、桶狭間古戦場伝説地があります。
前述のとおり、桶狭間の戦いの合戦場は今一つ判明しておらず、この伝説地についても、たぶんこの辺だろうという候補地の一つでしかありません・・・
でもでもそれでも、やっぱりいざその伝説の地に降り立ってみると、滅茶苦茶熱い気持ちになりました(><)


ここで義元が討ち取られた!?

アタシは基本、史跡巡り作戦を決行するのは晴の日と決めているのですが、今回の出撃に関して言えば、雨なら雨で問題ないなと思っておりました。
と言うのは、桶狭間の戦いとは、信長軍が義元の本陣を強襲する直前から前もまともに見えないレベルの大豪雨に見舞われ、そのおかげで信長軍は今川軍に動きを悟られずに奇襲攻撃となったと伝えられているからです。


どんなルートを通ったのかは分からない

今日はそこまでの大雨だった訳では無いですが、それでもやっぱり、雨が降っていたよかったと思いましたね。


もう一つの桶狭間

次に訪れたのは、桶狭間合戦伝説地からゆるやかな坂道を500mほど登った所にある桶狭間古戦場公園です。


尾張のうつけ者と海道一の弓取り

数々の資料によれば、今川義元が陣取ったのは桶狭間山だったと伝えられているところでありますが、そもそもこの古戦場付近には山というほどの山は存在しておりません。
ということで、古来幾人もの歴史家の方々が研究に研究を重ねた結果、この辺の標高65mほどのゆるやかな高台地域全体を指して桶狭間山と呼んでいたのであろうと結論付いているようです。


この辺に義元の本陣があったらしい

実際に訪れて見たこの桶狭間山は、ほんとにちょっと緩やかな高台の住宅地という感じでした。何しろこの義元本陣跡はちょっとした高級住宅の玄関前でしたからねw
今から460年前の6月12日、この辺いったいで今川義元の本隊が小休止して、
「もうすぐ尾張のうつけ者の吠えヅラが見れるわいハッハッハ!」
くらいに思いながらごはんを食べていたところ、突如の大雨とともに信長の軍勢が襲い掛かってきて激戦が始まったんですね。


ここにも義元討ち死にの地が・・・

先ほどから書いているとおり、桶狭間合戦場の場所というのはハッキリと分かっておりません。
おそらくはこの辺に今川義元が本陣を構え、そこに大雨とともに信長の軍勢が押し寄せてきて大乱戦となり、

1. 義元はこの本陣近辺で討ち取られた
2. 旗本と共に逃げ出したものの、500mほどで信長軍に追いつかれて討ち取られた

このいずれかだったと考えられております。


義元の墓は桶狭間合戦伝説地の方にあります

この今川義元本陣跡も桶狭間合戦伝説地も太古の昔から桶狭間古戦場として言い伝えられているということは、やはり義元はこの本陣跡で強襲を受け、その後、伝説地にて討ち取られたと考えた方が自然なのではないかと思いますね。


やっぱり来てよかった桶狭間

どちらにしても、織田信長飛翔のきっかけとなった大戦の舞台となった一帯がゆるやかな丘陵地帯であるということ、清州城から熱田神宮、善照寺砦までの距離感がよく分かりました。
それに何よりやっぱり、伝説の合戦場の空気を肌で実感できたという喜びは何事にも代えがたいものがありますね☆


お昼ごはんは味噌カツ丼&きしめん


善照寺砦跡
名古屋市緑区鳴海町砦3

桶狭間古戦場公園
名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001

桶狭間古戦場伝説地
豊明市栄町南舘11

さて桶狭間の戦いと言えば、その合戦場のみならず、その詳細については多くの謎に包まれております。

1. 今川義元が桶狭間に来た目的は?
2. 両軍の軍勢はどれくらいだったか?

などという点において議論が分かれているところであります。
この辺を細かく説明すると長くなっちゃうんで、思いっきり簡単に確実な史実だけをまとめると、

◆当時の今川義元と織田信長では、家格も含めて領土も軍勢も今川義元の方が大勢力だった。
◆この戦いで今川義元が首を取られ、今川家没落と織田信長飛翔のきっかけとなった。
◆今川義元の首を取ったのは毛利新介という武者である。

この3点があげられます。
寡兵が大軍を打ち破った戦は多々あれども、大名クラスの大将が首を取られた野戦というのは戦国時代全般を通してみても数えるほどしかありません。しかもそれをやってのけたのがあの織田信長だというのですから、この桶狭間の戦いが超有名な伝説の戦いとして語り継がれるのも当然のことでしょう。
また、アタシ的にこの戦についてポイントの高い点は、この毛利新介という人物の存在にあります。
前述したとおり、首を取られた大名クラスというのはそう何人もおりません。ということは、敵の大将の首級をあげるという空前絶後の超大手柄を立てたことのある武者というのも数えるほどしかいないということです。という訳で、この毛利新介という武者は、アタシ的には戦国時代で一番凄い手柄を立てた人物だと思っております。

※これだけでは物足りないという方のために、この桶狭間の戦いのことをもう少し解説すると・・・

まずは今川義元が桶狭間に来た理由について。
これには以下二つの説があります。

1.天下取りを目指して京都に進撃するのに、途中で邪魔な織田信長を葬ろうとした。
2.たんなる領土拡張のための戦だった。

こちらについては現在、1の義元上洛説を取る人はあまりおりません。
義元はたんに尾張に勢力を広げるために攻めてきたと考えるのが自然ですね。

次に両軍の軍勢について。
これは信長公記をはじめとする数々の資料を見るに、

今川軍は2万〜4万5千
織田軍は2千〜3千

とまちまちな数字が書かれています。
また、今川軍は総勢は2万〜4万5千だったとしても、実際に織田軍と戦った本陣の軍勢は5千程度だったという説が有力です。
どっちにしても、寡兵で大軍を破ったということは間違いないでしょう。
なお、当時の今川義元と織田信長の勢力がどれくらいだったかというと、

今川義元:駿河、遠江、三河の三国で80〜100万石程度
織田信長:尾張一国50万石を完全に掌握しきれていない

と言った感じです。
大名の動員兵力は、だいたい1万石につき250人くらいですので、当時の今川義元の最大動員兵力は多く見積もっても3万人くらいと考えられるでしょう。
対する織田信長の方は、尾張一国全土から兵士を引っ張ってくれば1万5千くらいは動員できるでしょうが、当時はまだ尾張一国を完全に支配しておりません。更に信長は善照寺砦などにも兵を張り付けておく必要があったため、やはり桶狭間合戦時の兵力は2千〜3千くらいだったのではないかと考えられております。

最後に毛利新介について

前述のとおり、アタシはこの毛利新介という人を物凄く高く評価しております。
というのも、毛利新介&今川義元のほかに、野戦で討ち取られた大名&討ち取った人物をアタシの記憶する限りで調べてみたところ・・・
 
上杉朝定   (河越夜戦)      討ち取り人:不明
斎藤道三   (長良川の戦い)   討ち取り人:小真木源太と長井忠左衛門
竜造寺隆信 (沖田畷の戦い)    討ち取り人:川上忠堅
森長可    (小牧長久手の戦い) 討ち取り人:不明
池田勝入   (小牧長久手の戦い) 討ち取り人:不明
十河存保   (戸次川の戦い)   討ち取り人:不明
長宗我部信親(戸次川の戦い)   討ち取り人:鈴木大善

※落城時や退却途中に自害した大名は除外しております。

せいぜいこんなものです。
しかも上記にあげた大名と比べてみるに、源氏の名門にして副将軍の資格を持っていたとまで言われる今川義元が一番の格上名門大名と言ってもいいでしょう。
そんな超大将首をあげた毛利新介こそ、戦国一のお手柄武者と呼んでイイのではないかと思いません?

もっとも、その肝心の桶狭間の戦いにおいて、一番手柄と評されたのは毛利新介ではなく、今川義元の居場所の情報をもたらした梁田政綱という人物だったという説もあるのですが・・・
また、毛利新介がその後どうなったのかと言えば、信長の側近としてそれなりに出世し、本能寺の変にて織田信忠と共に討ち死にを遂げております。



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