南宮山・毛利秀元陣所跡 〜エア弁当in関ヶ原〜 (2019.3.16)


天下分け目の関ヶ原の戦いと言えば、小早川秀秋の裏切りによって勝負が決したということが良く知られているところであります。
でも実のところ、関ヶ原と言えば小早川、裏切り者と言えば小早川というくらい有名なこの裏切り行為の影に隠れ、むしろこっちの方が関ヶ原の戦いの大勢を決したのでは無いかという裏切りがあったことは、戦国マニア以外にはあまり知られておりません。
今日はその後の世に「宰相殿の空弁当」などと呼ばれることになったエピソードの舞台、南宮山・毛利秀元陣所跡に行って来ました。


関ヶ原を見下ろすあの山が南宮山

とりあえずこの「宰相殿の空弁当」の話をするにおいて仕入れておいて欲しい最低限の知識を説明します。まずは↓の関ヶ原の戦い陣形図をご覧ください。


南宮山は関ヶ原主戦場の裏手にあります

この陣形図の左側にワラワラしているのが関ヶ原の戦いの主戦場で、本稿の主役である毛利秀元は石田三成方の西軍に属し、その搦め手に位置する南宮山に陣をはりました。


南宮山は標高400mくらいの小山です

細かい経緯等は省略しますが、関ヶ原の合戦は1600年9月15日の朝から始まり、↑陣形図左側の密集地帯で激戦が繰り広げられます。


なかなか気持ちのいいハイキングコース

陣形図を見てのとおり、合戦の主戦場が左側なのに対し、徳川家康の本陣の背後はまるでガラ空きではありませんか! そこで南宮山の毛利秀元は山を降りて家康の背後を突こうとしたのですが、なぜか秀元の前衛に位置する吉川広家が、まるで秀元の邪魔をするように、頑としてその場を動こうとしなかったのです。


坊主に戦の何が分かるか!

吉川広家の後方に陣取っていた安国寺恵瓊が広家の下に、

「いったい何をやっているんだ!今こそ出陣の絶好のチャンスだぞ!」

と使者を送れば

「坊主に戦の何が分かるか!」

と返されてしまうし、
シビレを切らした毛利秀元が同様の使者を送ってみても、

「いや今はまだそのタイミングでは無いだろう。」

などとノラリクラリとかわされてしまいます。
ああ、今この時に家康を挟み打ちにすれば勝利は確実だと言うのに!!


石垣跡を発見☆


土塁もあるよw

そんなイライラの頂点に達していた毛利秀元の下に、(陣形図には載っていないですが)秀元の更の後方に陣取っていた長宗我部盛親から「キサマらいったい何をぐずぐずしているんだ!!!」との使者が来ます。


さあ困ったどう返事をしよう!?

そもそも吉川広家とは毛利グループの一員の武将であり、秀元はこの関ヶ原の戦いにおける毛利軍の代表者です。と言うことは、吉川広家が動かないイコール毛利秀元が動かない、長宗我部盛親はそのように思っていたのです。
なので秀元としては、「それは吉川広家のせいだ!」などと言うことは出来ません。もしそんなふうに答えたら、長宗我部盛親から、「お前が毛利の総大将だろうが!」とツッコまれるのが目に見えておるのですから・・・
そんな困った困った苦し紛れの毛利秀元はいったいなんと答えたのか!?

「今兵士たちに弁当を食べさせているところなのだ」

などという大迷言が飛び出してしまったのですwww


うーんおいしいw

これには長宗我部盛親の使者もあきれ返るほかにありません。
こんな一刻の判断が勝負を分ける重要時に飯食ってるやつがあるかー! って言うかここにいる誰も弁当なんて食ってねーだろ!!とツッコんではみたものの、物理的に無理なものは無理なんだからどうしようもありません・・・長宗我部盛親の使者は顔を引きつらせながらすごすごと退散するしかありませんでした。
という訳でこの珍妙な出来事は、毛利秀元の官位である参議の別名である宰相をとって、「宰相殿の空弁当」と言い伝えられるようになったのでありました。


いや確かにおべんとう食べたくなるけどねw

ってことで今回のミッションは、この宰相殿の空弁当の舞台となった南宮山でおべんとうを食べてくるというものでしたw 
いやー確かに、この青空の下に広がる濃尾平野の絶景を前にすれば、おべんとうにしたくなるという気持ちも分かるものです(笑)
長宗我部盛親の使者から矢のような参陣督促を受けた毛利秀元も実のところ、お腹ぺこぺこな中でずっとこの景色を見下ろしていて、本当におべんとうが食べたくて食べたくてしょうがなかったし、そう言えば長宗我部盛親の使者も納得してくれるんじゃないかと思ったのかもしれませんねw


でも残念ながらこっちじゃないんだよな

さて今回の作戦で唯一の誤算だったのは、アタシはてっきり、この毛利秀元の陣所から関ヶ原の合戦場が一望できるんじゃないかと思っていたのが違ったということでした。
この目の前の景色は南宮山麓でも関ヶ原とは反対側で、毛利秀元の陣所からは関ヶ原の様子はぜんぜん分からなかったようです。だからこそ、吉川広家は毛利秀元からの督促をのらりくらりとかわすことが出来たんでしょうね。
もしも目の前で一進一退の攻防が繰り広げられているのを目の当たりにしていたら、さすがに吉川広家も出陣せざるを得なかったことでしょう。


ここで邪魔しておりましたw

そもそもなんで吉川広家が毛利秀元の邪魔をしていたのかと言えば、なんのことはありません。事前に東軍総帥・徳川家康とそういう約束をしていたからというだけの話です。
バリバリの反家康である毛利グループの中において、実は吉川広家だけが唯一の親・家康派だったのです。

「このまま石田三成なんかに味方して次期天下人候補筆頭の徳川家康と戦ったりしたら毛利家は滅びてしまう・・・」

広家のこの消極的な裏切りは、自分が動かずに毛利軍をくぎ付けにすることと引き換えに、毛利家の所領には手を出さないという家康との密約によるものだったのでした。
ちなみに広家の毛利家でのポジションは、若い秀元を補佐する年長の家老的な存在だったために、秀元も広家に対してはあまり強く出られないという事情もあったのです。

結局、毛利グループと長宗我部盛親は最後の最後まで南宮山麓から一歩も動くことができず、そうこうしているうちに小早川秀秋の裏切りイベントが発生してしまいます。結果、石田三成率いる西軍は総崩れとなり、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の大勝利に終わったのでありました。

もし、吉川広家が毛利秀元と長宗我部盛親の邪魔をせず、家康の本陣を背後から急襲していたら、あるいは小早川秀秋による戦国最大の裏切り劇は起こらなかったかもしれません。
秀秋は関ヶ原の戦場全てを見渡すことができる、上記陣形図の一番左下の松尾山に陣取っておりました。優柔不断な小早川秀秋が山の上から西軍大優勢の戦場を見てとれたなら、怒涛のごとく松尾山を下って東軍のサイドに総突撃をかけていた可能性は非常に高いと思います。
関ヶ原の戦いの東軍勝利を決定づけたのは、この吉川広家の裏切りだったのでした。


※参考 松尾山からの眺め

そうそう、この吉川広家と徳川家康の密約なのですが、いとも簡単に反故されてしまいます。結果、毛利家はその領地を120万石から37万石に大きく減らされることになったのでありました(^^;
お家のためを思っての広家の消極的裏切り行為行動のおかげで毛利家が残っただけマシだったのか? それともイチかバチの大勝負で家康の背後を襲った方が良かったのか?・・・それは誰にもわかりません。

※エア弁当したのは毛利秀元ではなく、吉川広家だったという説もあります。

南宮山 毛利秀元陣所跡
岐阜県不破郡垂井町宮代1734?1 南宮大社裏手から登って行けます。

おべんとう ファミマののり弁当w 景色のイイ山の上で食べればおいしいですね(^^)


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※2019.12.7 関ケ原に行って来ました☆


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