三浦半島・遠江・三河遠征記 2010年9月20〜22日 その1 

9月の連休を利用して、三浦半島を中心に、アタシ的に気になる史跡をいろいろと探訪してみましたので、その記録をお送りします☆

9月20日

石垣山一夜城・小田原城 〜見る側と見られる側と〜

かつて豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、あの手この手で小田原城にゆさぶりをかけて落城させたことは、過去に小田原物語で書いたところでありますが、その小田原屈服ハッタリ作戦においてもっとも北条方の闘志をくじいてしまったのは、この石垣山一夜城の存在でした。

石垣山は、小田原城天主から5キロほどある場所にある標高100m足らずの小高い丘なのですが、小田原城の天主からとてもよく見える位置にあります。
ある日の朝、いつものとおり夜遅くまでの小田原評定で寝不足気味の北条軍団が眠い目をこすりながら石垣山の方を見てみると・・・

「ちょwwww いつのまにやらあんなところに城が建ってるしwww」
「昨日はあんなモン無かっただろwww」
「・・・ってそれじゃあアレ昨日一晩で出来た城なんかYO!」
「秀吉マジパネェwww」

なんと!昨日まではそんなところには何も無かったはずの場所に、一夜で秀吉方の城が出来ていたのでした!
・・・と言っても実はこれ、本当に一夜で城が出来たのではなく、前々から何日もかけて作っていた城がようやく完成したところで、周りに立っていた木を夜のうちに全部切り倒して、小田原城から見たらまるで一夜で完成した城のように見えたというカラクリなのでした。

ってことで今回の遠征では、この石垣山一夜城に行って小田原城を見下ろして来たあとに、今度は小田原城に行ってその天主から石垣山の方を見てくるというツアーを組んでみました☆

まずは石垣山一夜城。
小田原城と平野を挟んだ対岸のような位置にあるのですが、ゆったりした斜面が長々と続いており、その中腹部からは小田原城がとてもよく見えます。なるほど確かに、こんなところに城を作られたんじゃあ北条軍団もやる気なくすの無理ないですわ。


ありゃー丸見えだよ

実際の城跡を見ても、山の中のはずなのに平でひらけた場所がたくさんあって、城を作るにはうってつけです。これだけのスペースがあれば、そりゃ茶会やったり演芸場作ったりしてのんびりマターリできますわな。そんでもってそんなワイワイ騒いでいるところが小田原城からはしっかとよく見えるってんですからねえ・・・


ゆるやかな庭園のようです

また、この石垣山一夜城では、伊達政宗物語で語ったように、秀吉が政宗の首を扇子でピタピタ叩いたあとで、見晴らしのよい場所に連れてって、布陣の解説をしただとか、秀吉が家康と二人で連れションしながら天下統一後のことを話し合っていただとか、そんな話も残っています。
アタシも眼下の小田原城を眺めながら、もしかして秀吉もこの場所に立って小田原城を見ていたのかな?とか秀吉が正宗に自慢解説していたのはこの辺だったのかな?だとか、そんなことが色々想像できました☆


秀吉も同じ景色を見たのかな?


ってことで石垣山一夜城を後にして、次はいよいよ小田原城に突撃です。
アタシはてっきり、小田原城って前に見てきた岐阜城みたいに、平野の中にひとつそびえ立つ丘のうえに立つ平山城なのかなと思っていたのですが、完全な平城なんですね。

こっちの方は石垣山一夜城とは違い、復元された門や天守閣などがあり、さすがにかつての天下一の名城です。とにかく観光客はワラワラいるし、なんかしらんけどコスプレしたねーちゃんが写真撮ったりしてて、一大観光地となっておりました。


コスプレねーちゃんとかいるし・・・

アタシは小田原城の史跡や建物そのものにはさほどの興味はないので、城下の公園その他はスルーして、早速天守閣に登ってみることにしました。
小田原城は平城ですが、周りは広い平野部となっているので、とてもイイ眺めです。
相模湾がすぐそこの位置にあり、石垣山もちょっと見上げた場所にあるのがよく見えます。


あんなところに城がー!

ああ、あの相模湾は秀吉の軍船に埋め尽くされていて、石垣山には城が建ってて宴会してて、そんでもってあの平野部は秀吉軍団にグルリと囲まれていた訳か・・・そんな状態でよくもまあ小田原城は3ヶ月も落城せずに持ったモンだなと、あたしゃむしろ感心してしまいましたね。


相模湾もすぐそこです

眼下に小田原城を見下ろして得意満面だった秀吉の気持ちと、周りをグルリ囲まれた北条軍団の絶望と、そのどちらも一緒に体感できて、大満足な遠征となりました☆

それにしてもやはり、石垣山の上から小田原城の天守閣を見つけたときの感動はデカかったなあ・・・


やっぱ天守閣も載せないとねw


小田原城 JR小田原駅のすぐ隣

石垣山一夜城 小田原城から5kmくらい

9月21日

三笠記念公園 〜130mの超巨大戦艦〜

日本海海戦において旗艦として活躍した戦艦三笠ですが、バルチック艦隊を打ち破ってから100年以上経ったこの平成の世においても、横須賀港にて現存していたりします。

三笠の全長は130mほどなので、現代のちょっとしたフェリーよりも小さいくらいのはずなのですが、実際に現物を間近で見てみると、スペック上の大きさ以上の威圧感があってすごい迫力です。やはり現実に死線を潜り抜けて来た艦だけあって、圧倒的なオーラを放っておりました。


東郷閣下に見守られて

やはり何と言っても、サイドから出ている大砲群のカッコ良さがダンチでしたね。
この大きな筒が海の上で一斉に火を吹いて 、バルチック艦隊を粉砕したんだななんて思うと震えが止まりませんでした(><)


戦艦の主砲ってロマンです

500円の入場料を払ってデッキに上ってみると、これまたやはり、軍艦ならではの壮厳なふいんきに圧倒されてしまいます。かつて100年前に、東郷平八郎閣下以下の帝国軍人たちが、実際この場を走り回り戦っていたのかと思うと、もう感動のあまり涙が出そうになりましたよ。


東郷閣下もココを歩いたのかなあ?

アタシが三笠の艦上を歩きまわってみて、一番感極まった場所はデッキ前方の主砲のやや後方あたへんでした。戦艦において一番の命と言える主砲を見据えながら前方の水平線を望み、後ろを振り向けば東郷閣下がきっと同じように水平線を眺めていたであろう艦橋がそびえ立つその場所に立つと、たなびく波の向こうにバルチック艦隊が見えてくるようでした。


日章旗がイイ!


いざ、海ゆかば


三笠記念公園 JR横須賀駅から車で10分くらい


浦賀・久里浜 〜ペリーの見た浦賀〜

今から150年ほど前に、日本に開国を求めてやって来たペリー率いる黒船が現れたのがこの九里浜です。この九里浜は、三浦半島南部において、ポッカリ開いた穴のような場所にひっそりと砂浜が広がっており、沖に大船を停泊させて小船に乗って上陸してくるにはうってつけの場所だってことが、実地を見てすごく納得できました。


こりゃ上陸するのに丁度いい

アタシがこの九里浜を眺めながら、頭の中に四隻の黒船のことを思い描いて妄想していると、ちょうど運よくこの九里浜港と房総半島を結ぶフェリーがアタシの立っている久里浜に腹を向けて旋回して行きました。
ああ、黒船ってのはあんな感じに停泊してプレッシャーをかけて来たんだなあ・・・こんな何も無さそうな漁村にいきなしあんなゴツいのが現れたんじゃあ、そりゃみんな腰抜かすだろってことがまざまざ実感できましたよ。


黒船もこんなふうに来たのかな?

太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず。

この小さな扇状の砂浜から広がる海は、いつまで眺めていても飽きることはありませんでした。


浜のすぐ裏にはペリー記念公園があります

アタシに黒船のイメージを感じさせてくれたこの九里浜フェリーは、対岸の房総半島先端との間を片道30分程度で往復しており、遊覧目的で乗ることも可能となっております。
黒船を見て腰を抜かした浦賀の人たちの気分を堪能したところで今度は、頑迷に鎖国を貫こうとする辺境の島国に異人の住むという見知らぬ地に乗り込んで来たペリー提督の見た浦賀感じた浦賀を体感してみようと、久里浜フェリーに乗ってみることにしました。

ペリーも150年前に同じように久里浜を眺めていたんだなと思いながら、フェリーの尻に立ってどんどん遠ざかって行く久里浜を見ていると、なんとも言えない感情が心の奥底からふつふつ湧き上がって来ます。


ペリーはどんな思いだったんだろ?

・・・ごめんなさい、このアタシが抱いた思いを文章にすることはちょっと出来そうにありません。ただとにかく、船の上から眺めた久里浜の景色は、久里浜から眺めた海の景色以上にアタシの胸に何か訴えてくるものがありました。


房総半島も綺麗でした☆


浦賀・久里浜 横浜横須賀道路・浦賀インターより20分くらい

久里浜港・東京湾フェリー 房総との往復90分程度。遊覧だと1000円。


新井城 〜静寂の古戦場〜

アタシは総合日本史マニアであることを自負しておりますが、そのアタシが全日本史上の人物で2,3を争うくらいに好きな人物に北条早雲と言う人がおります。
新井城とは、徒手空拳から戦国大名となって伊豆・相模を支配した北条早雲の最後のライバル・三浦義同(みうらよしあつ)なる人物が最後に立てこもっていた場所でして、早雲がこの新井城を攻めたとき、なんと!齢は84にも達しておりまして、しかもこの城を攻め落とすのに3年間も包囲したってんだから凄いものです。
アタシの大好きな北条早雲がそこまでの執念を燃やして攻め落とした新井城・・・
三浦義同が強い強い早雲相手に3年間も持ちこたえることが出来た新井城・・・
そんな凄パネェ城にいつか行ってみたいと小学校6年生当時からずっと思い続けておりまして、今になってようやくその願いが叶ったのでありました。

三浦半島の最先端にあるこの新井城は、タダでさえ目立たない辺境な三浦半島奥地の、更に小さな半島地形の先っぽの静かな場所にあります。
かつて難攻不落の名城だった新井城の跡には、今は東大地震観測研究所が立っており、そこで足掛け3年にも渡る大篭城戦が行なわれたおもかげなどは微塵も残っておりません。なるほど確かに、三方を海に囲まれたこの地に城を作れば相当攻めにくいだろうなあと想像はつきますが、現在において実際そこにあるのは、落城の際に城兵の血で赤く染まったと言われる油壺湾に囲まれる、小高い丘陵地に生い茂る木々だけです。


本当にココで大激戦が?


油壺湾は何も語ってくれません

かつての古戦場に来るといつも思うことですが、大激戦のあった場所というのは、こうしてひっそり静かに眠るような場所である方が、むしろいろいろ感じるものがあるものです。
静かに佇む油壺湾とセミの声しか聞こえてこない雑木の丘ですが、そこはやはり、紛れも無くかつて早雲と義同が死力を尽くして争った戦場跡でした。


史跡はこれだけ


新井城 油壺マリンパークすぐそば


稲村ヶ崎 〜いざ、鎌倉を目指さん!〜

鎌倉とは、源頼朝が本拠地に選んだだけあて、三方を山に囲まれていてもう一方は海という実に攻め難い地形である。アタシが小学生のときに読んだ学習マンガ・源義経にそんなことが書いてありました。
そんでもって同じく、アタシが小学生のときに読んだ学習マンガ・足利尊氏には、そんな攻め難い鎌倉を、新田義貞は引き潮のときを狙って海岸沿いに攻め上がって攻略したと、そんなことが書いてありました。また、更にその後、義貞は鎌倉を攻めるに当たり、潮が引く日時を計算したうえで海の神に剣を奉納して祈りを捧げ、あたかも神の意思で鎌倉への道を切り開いたように皆に思わせて士気を鼓舞したなんて知識も得ることになりました。

と言うわけで、この新田義貞が剣を奉納して攻め上がって行った海岸って言うのも、これまたアタシが小学生の頃から行ってみたいと恋焦がれていた場所でして、今般ついにその夢が叶ったのでありました。

この新田義貞が神剣を奉納した場所と言われる稲村ヶ崎・・・ココから鎌倉まで続く由比ヶ浜はグルリ湾曲していて、この由比ヶ浜を切断するように立っている稲村ヶ崎と呼ばれる岩場を越えれば、ずっと浜沿いにウオーって行けそうな絶妙な場所です。


この岩場を超えられれば・・・

そんでもってココだけ突出した岩場なんで、祈りを捧げて神剣を海に放り投げるのも実に絵になりそうです。

・・・でも正直なところ、新田義貞がココで神剣を奉納したって「伝説」は、ウソかもしれません。
そうは言ったものの、新田義貞が海沿いに鎌倉を攻めて攻略したってことは史実ですし、この稲村ヶ崎を通って行ったことも間違いないでしょう。それならば、新田義貞もきっと、この稲村ヶ崎から由比ヶ浜を眺めていたことでしょうし、あの白く輝く砂浜を、新田義貞率いる坂東の武士たちが駆け上がって行ったことも間違いないでしょう。


あの向こうに鎌倉が・・・

稲村ガ崎の岩の向こうに見える由比ガ浜・・・さらにその向こうにある鎌倉の方向を眺めていると、これからいよいよ敵の本拠地に乗り込まんと武者震いする義貞の荒い息遣いが聞こえて来そうです。また、白く輝く砂浜には、疾走する騎馬軍団が見えてくるようでした。


新田義貞の記念碑もあります


稲村ヶ崎 江ノ島電鉄・稲村ヶ崎駅から徒歩5分


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