上月城 〜七難八苦の忠義の臣〜 (2016.9.25)

かつて中国地方には、尼子氏という大大名が幅を利かしておりました。
尼子氏は謀聖と呼ばれた尼子経久の手により、最盛期には出雲の月山富田城を拠点に、最盛期100万石くらいの勢力を誇っておりました。でもその尼子氏もレジェンド武将・経久の死後は安芸の謀神・毛利元就の手によりその版図を削られて行き、ついに1566年に月山富田城は陥落、尼子氏は当主・尼子義久を出家させられ事実上の滅亡に追い込まれてしまいました。

戦国大名としての尼子家最後の当主・義久は今ひとつな人物でしたが、その配下には山中鹿之介という大忠臣がおりました。鹿之介は尼子一族の遺児・勝久をかつぎ、尼子氏の遺臣を集め、反毛利のゲリラ戦を展開します。

とは言ったものの相手は山陰山陽8カ国近くを有する上に、毛利元就のほかに吉川元春、小早川隆景という戦国屈指の名将揃いです。鹿之介は兵を挙げる度にすぐさま鎮圧されてしまいます。それでも毛利軍は鹿之介の反乱にはほとほと手を焼き、敵ながらアッパレなヤツと一目置いておりました。

そんな鹿之介に朗報が届きます。西からやって来た織田信長の軍勢が力を貸してくれるというのです。もっとも信長にしてみれば尼子氏の再興のことなどはどうでもよく、たんに自らの敵である毛利を倒すのに鹿之介を利用するに過ぎません。ならばこっちも信長を利用してやろうと鹿之介と信長の利害は一致し、鹿之介は織田軍より上月城を預かり、毛利に対抗することになりました。


ねんがんの城を手にいれたぞ!

上月城はちょうど織田と毛利の勢力範囲の中間・播磨と美作の境目くらいにある山城です。
もっとも織田軍が自前で使うことをせず、敵の敵は味方程度の鹿之介に与えたというレベルですからそこまで強力な城という訳ではありません。


何でこんなに(略というほどではありませんでした。

それでも鹿之介は上月城に毛利軍を引き付けて奮戦します。手勢2000で毛利軍20000を相手にしても全く引けを取ることはありませんでした。


曲輪も長細いですね

ある日、織田軍の後詰を期待して絶賛奮戦中の上月城に、トンでもない知らせが舞い込みます。


二の丸から見上げた本丸土塁

なんと!上月城のはるか手前にある織田軍の重要な拠点で反乱の火の手があがってしまったから上月城への後詰が出来なくなったなどというのです!
反乱の主の名は別所長治。この三木城の反乱を鎮圧しなければ、織田軍にとっての播磨全体の戦局が脅かされてしまいます。
こうなっては是非もなし・・・上月城は捨て駒にされる運命になってしまったのです。


絶望の本丸跡

織田の援軍は来ないとみて、毛利軍はいよいよカサにかかって上月城に攻め寄せます。それでも鹿之介は持ち前の気合と根性でなんとか城を支えます。


織田軍は来ないのか・・・

いかに鹿之介が武勇と知略を持ってしても、兵糧のことだけはどうにもなりません。ついに上月城は開場し、尼子一族は切腹、鹿之介も殺されてしまい、尼子氏再興の道は完全に絶たれてしまったのでありました。


鹿之介は立派に戦い抜きました

さて殺されてしまった鹿之介ですが、その不屈の精神と行動力は、敵からも味方からも賞賛されておりました。尼子家再興のために

「我に七難八苦を与えたまえ」

と神に祈ったという山中鹿之介の生涯は、比類なき忠義の士の物語として今も語り継がれています。


城下の上月歴史資料館にて


上月城
兵庫県佐用郡佐用町


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