紀伊半島横断記 (2013年9月17日〜20日) その2

9月19日


根来寺 〜こんな場所だったんだ〜

戦国時代最強と言ってもいい鉄砲集団、根来衆が根拠地としていた寺です。…ってアタシにはそれ以上の説明が出来ないのですよ(^^;


正面はこんな感じ

この根来寺は、今回の紀伊方面遠征に当たって、ルート上の丁度イイ場所にあったからなんとなく寄ってみただけであって、それほどの思い入れは無かったりするのですよ。


国宝の大塔

なので実のところアタシには、根来寺に関してはもともと冒頭に書いたくらいの知識しかありません(^^; それを後付けでwikiなんかで調べた解説を書くのもアタシの流儀に反するので、根来寺の説明は以上終了です(爆)

根来寺
和歌山県岩出市


九度山・真田庵 〜魂は朽ち果てず〜

日本一の兵と称えられ、絶大なる人気を誇る戦国武将の真田幸村が一番長い時間を過ごした場所は、もしかしてココ紀州九度山の真田庵かもしれません。
信長の野望シリーズや無双シリーズを見るまでもなく、真田幸村と言えば戦国最強武将と言ってもイイ評価を得ておりますが、実のところその実働期間はそれほど長くはありません。その49年の生涯のうち、なんと14年間はこの九度山での幽閉生活を送っているのです。


エラくローカル

関が原の戦いで破れた真田昌幸、幸村父子は、東軍についた兄・信之の必死の嘆願によってなんとか一命は得られたものの、領地は全部没収されて流刑処分となりました。その流刑地こそが、この紀州九度山だったのです。


九度山の里

昌幸幸村父子は流刑の罪人の身分とはいえ、比較的自由に暮らしていたようです。実際に九度山を訪れてみて分かったのですが、「山」と言っても案外ふもとの方で人里離れた感じではありません。それにそもそもなぜ昌幸幸村父子がこの九度山に住んだのかと言えば、本来は女人禁制の高野山に流されるはずだったのが、妻子を連れていたためにこの九度山に来たというのですから、家族も一緒の生活だったということです。罪人という足枷さえなければ、気ままな隠居生活といってもイイ感じです。


こんな庵に住んでおりました

もっとも生活は楽では無かったようで、昌幸は信之にお金を無心する手紙を何度も送っており、「酒を貰ってうれしかった。」「鮭を貰えてありがたかった。」などという手紙も書いております。でもそんなことよりも、かつては智勇兼備の将としてバリバリ鳴らせていた昌幸にとっては、関が原での屈辱を晴らす機会が失われたことが何よりもキツいことだったのではないかと思います。


まったりな庭園で

昌幸と幸村は、このスローライフな真田庵にて、いったい何を考え語って暮らしていたのでしょう? きっといつか来るであろう徳川豊臣の戦に備え、戦談義に明け暮れていたのではないかと思います。それも打倒家康を一筋に。
実際、幸村は大阪の陣に際しては莫大な恩賞を約束してくれた東軍には味方せずに大阪城に入り、14年間のブランクをものともせずに真田日本一の兵と称えられる大活躍をしたのですから。


真田の想いは今にも伝わる

一見すると、楽々隠居が出来るだろうのどかな九度山の里です。でもそんな堕落生活を10年以上続けながらも昌幸幸村父子は、決して牙も爪ももがれることが無かったのです。しかも大阪の陣に際しての幸村は、もう48歳という老齢です。(昌幸は3年前に死去)何もそんな大博打に出なくてもイイだろう今更豊臣への義理を果たさなくても誰も何も言わないだろうというくらいの時間は経っているのです。

アタシは正直なところ今まで、真田幸村はちょっと過大評価されすぎかなと思わないでもありませんでした。でもこの侘び錆び茶室のような真田庵をみて、改めて幸村の凄さが実感できました。やはり真田幸村は、戦国最強クラスの勇将という評価で間違いはありません。

九度山・真田庵
和歌山県九度山町

賀名生 〜諦め切れない重み〜

後醍醐天皇の南朝と言えば吉野山というイメージなのではないかと思います。でも実のところ、吉野山よりもこの賀名生の方が南朝の本拠地との期間としては長かったりします。後醍醐亡き後、勢いを失った南朝は吉野山を維持することが出来ず、更に大和の奥深いこの賀名生の地に本拠を置くことになったのです。
以前に訪れた吉野山ですらかなり酷い場所だったのに、更に追い詰められた奥地だなんていったい賀名生とはどんなに凄い場所だったのだろう? それを確かめるべく現在の奈良県五條市の奥地に出撃してきました。


これは辺鄙だ

地図で見た限りでは、吉野山の方がよっぽど山奥なんじゃないかと思っていたのですが、やはりこの賀名生もなかなかどうして凄いところでした。アタシが北朝のエラい人だったら、賀名生の南朝は京都からの距離も遠いことだし、こんなところまで逃げて来たんならもう放っておいてもイイんじゃね?って思えるくらいです。って言うかココまで追い詰められたんならもうギブアップしちゃえよなと思ってしまいます。


これが皇居!?

これ・・・どっかの豪農の家じゃなくて皇居なんですよ?(^^; 皇居ってのは天皇の住む場所です。天皇ってのは日本で一番エラい現人神です。そんな凄い人がこんな家に住んじゃってイイのかよ(><)っていうかココまで追い詰められたんならギブアッ(略ですよ。


わびしいなあ(><)

でも逆に言えば、ココまでされても諦めないくらい南朝の執念とは凄かったということなのですよ。そんな怨念の塊のような存在となった南朝を滅ぼすのは容易ではないというのが逆に分かったような気もします。

また、この賀名生には、神皇正統記を書いた南朝の大忠臣・北畠親房の墓なんてものもあります。神皇正統記とは(筆者は読んだことはありませんが)簡単に言えば、北朝の天皇はニセモノであって南朝こそがホンモノであるということを正々堂々論じた書物です。そんなものを書いた北畠親房なのだからさぞかし後醍醐マンセーなのかと言えば実はそんなことはなく、むしろ破天荒な後醍醐のことは批判していて干されていたくらいなのです。


忠臣ここに眠る

だったら親房も南朝なんて裏切って北朝方に付けばイイじゃんと思いたいところですが、そこをあえてそうせずに神皇正統記なんてものを書いちゃうところが親房のエラいところでしょう。また、南朝とは、天皇家の正当性とは、それだけ重い重いものだということなのでしょう。
この賀名生の地には、南朝の執念、天皇家の正当性がいかに重さというものがすべて詰まっているように思えました。

賀名生の里歴史民族資料館
奈良県五條市


笠置山 〜それでも朕は諦めない!〜

かつて後醍醐天皇が打倒鎌倉幕府の兵を挙げ、一番最初に篭った場所がこの山城(京都府南部)と大和(奈良県)の国境付近にある笠置山です。


車でもキツいっての

筆者はかつて山城を自分の足で登ってみて「なんでこんなに疲れ(略)と何度書いたことか数知れませんが、車で登りながらそれを思ったのは初めてです。なんでこんなに交通の便が悪いところに立て篭もるんだよ! 自分の足では山登りすることなどなく、全て牛車や輿に乗って移動していたであろう後醍醐天皇も、きっとこの笠置山を登るときには同じように思ったことでしょうw


完全な山城だな

そうして辿り着いた山頂付近の駐車場に車を泊めて、かつての後醍醐天皇の臨時御所跡へと向かいます。さすがに倒幕軍の本拠地と選ばれた場所だけあってその道の険しいこと険しいことハンパではありません。こんな険しい場所に連れられて来ても泣き言一つ言わずに倒幕の炎を燃やし続けた後醍醐の凄さを改めて思い知らされました。


いい景色なんですけどねえ

なんでもこの笠置山には3千の兵が立て篭もり、対する幕府軍は7万5千だったと言われております。きっとこの笠置の眼下には、幕府の大軍がひしめきあっていたことでしょう。いかにこのような絶好山城地形だったとはいえ、よくも50日間も幕府軍の猛攻を防いだものだと感心してしまいます。


こんなところに皇居跡が…

そんな青息吐息で絶望的な篭城戦を後醍醐はこんな場所で50日間も過ごしていたのです。しかも一度そんな苦労をしていながらも全く懲りることなく、後に船上山や吉野山にも立て篭もった後醍醐のバイタリティと執念にはもはや畏敬の念しか沸いてきません。


こんなところを身一つで…

しかも後醍醐はこの笠置山が陥落した際に、この山中を一人逃亡放浪までしているのです。
アタシはかつて後醍醐天皇という人物のことがあまり好きではないと書いているところですが、もうそれは撤回します。かつて吉野山、船上山を訪れたときに薄々思っていたことなのですが、今こうして笠置の地において気づいてしまいました。アタシは後醍醐天皇の大ファンであると。

書物だけを読む限りでは、アタシは後醍醐天皇の身勝手ワガママっぷりに呆れ果てるだけでした。でもこうしてその足跡をたどってみることによって、その評価がガラリと変わることになったのです。たとえそれが部下を平気でトカゲの尻尾のように切り捨てて、ウソ八百を並べて我が子であっても窮地に落とす最低人間だったとしても、ココまでの行動力を持った人間のことは認めざるを得ませんよ。
やはり歴史とは書物を読むだけでは分からないことがいっぱいです。実地に来て見て初めて分かることがいっぱいあると、改めて感じされた笠置山でした。


他にも見所いっぱい

さてこの笠置山なのですが、後醍醐天皇のこととは関係無しに、自然公園として寺院施設としてもかなり楽しめる作りとなっております。


これはマジ凄い

途中にある大きな岩や彫り付けられた観音様には本当感動させられますし、山頂からの眺めもとても良し。ふもとにはキジ料理屋なんかもあって観光地としてはかなり楽しいところなので、後醍醐ファン以外の一般の方にも是非是非訪れて欲しいところです。


9月20日


長島城 〜戦争と平和〜

織田信長と一向一揆が死闘を繰り広げた、伊勢(三重県)尾張(愛知県西部)国境付近にあった水城です。


残っている史跡はこれだけですが

この長島城は、木曽川と長良川に囲まれた三角州に位置する天然の要害で、信長はその鎮圧に散々に手を焼きました。この伊勢長島の一向一揆勢は、織田家四天王の一人・滝川一益をも敗走させ、信長の弟・信興(のぶおき)までも討ち取っているというのですからタダ事ではありません。それも尾張那古屋からほんの10キロ程度しか離れていない場所での出来事なのですから、信長の焦りも相当なものだったことでしょう。


水堀の名残は残っております

信長が信長包囲網を解いて長島攻めに本腰を入れることが出来たのは、一揆衆が蜂起してから実に4年もあとのことでした。可愛い弟を殺した長島一向一揆勢に対する信長の怨念はすざまじく、アリの子一匹這い出る隙も出来ないほどに長島城を包囲します。最後は降伏して来た一揆勢をだまし討ちにして男女問わずに農民2万人を焼き殺してしまったのでありました。。


今から450年前にはこの場所で…

そんな悲劇の長島城跡には現在、小学校が建っております。なんとも凄い場所に学校を建てたものだなあと思うのはアタシだけではないでしょう。
でも逆に言えば、そんな悲劇があった地が、いまや子供が楽しく集い学ぶ学校になっているということは喜ばしいことのようにも思えます。いつまでもそんな戦乱の時代が続かずに、平和な世の中が訪れたということなのですから。

さてこの長島城、デルタ地帯に築かれた堅城として有名なだけあって、その湿原地形は見事なものでした。


川の間に道路があるぞ?

橋の上に信号機と交差点があって三角州を車が走っている光景なんて、生まれてこの方初めて見ましたよ。


なんぞこれw

こりゃあ織田信長をもってしても攻略に4年もかかってしまう訳ですわ。

伊勢長島城
三重県桑名市 阪名道・長島インターより10分


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