大寧寺 〜長門周防の下剋上〜 (2019.9.4)

この大寧寺は、まさに戦国時代を象徴するような人物・大内義隆が、これまた戦国時代を象徴するような人物・陶晴賢に討たれた場所です。


なかなか大きなお寺

ってことでまずは大内義隆が何者なのかと言うと・・・そもそも大内氏は古くは大和朝廷時代からの名族で、室町幕府においては最有力クラスの守護大名として勢力を伸ばし、義隆の父親の大内義興は応仁の乱後に京都を制圧して第11代将軍・足利義植を後見して事実上の天下人になったという名門中の名門です。
そんな義隆もなかなかの才人で、中国地方一帯に大きな勢力を張ったのですが、そこで現れたのが山陰地方の新興戦国大名・尼子経久です。
経久と義隆は一進一退の攻防を繰り広げたのですが、そこはやはり守旧派対新興勢力の戦いということでジリジリと押されて行きます。
やがて経久が病死すると、義隆は起死回生渾身の一手として経久の子・晴久の本拠地・月山富田城に攻め込むも、見事なまでの返り討ちにあって息子の晴持を失ってしまいます。この件を機に義隆は政治的野心を失い、悠々文化な麻呂大名と化してしまいました。
すると大内家の内部では義隆の麻呂路線を支持する相良武任一派と、尼子との徹底抗戦を支持する陶晴賢一派の真っ二つに別れ対立するという戦国と化してしまったのです。
結果、陶晴賢一派がクーデターを起こし、大内義隆をこの大寧寺の地で殺害してしまったのでありました。


大内義隆ここに眠る

それではその後、陶晴賢がどうなったのかと言えば、なんのかんのと色々あった後、厳島の戦いにおいて毛利元就に殺されてしまい、結果、もともとの大内氏の領土は全て毛利元就の領土となってしまったのでありました。
名門当主が新興勢力に押されたあげく、家中が守旧派と急進派の真っ二つに別れて下克上が起こり、その成り上がり者がさらに下克上をくらって養分になってしまうという、この大内→陶→毛利の移り変わりは正に戦国時代の典型的象徴例と言っていいのではないかと思います。


なぜか上杉憲実の墓なんてものもある

そんな大内義隆終焉の地・大寧寺。機会があったら訪れてみようと前々から思っておりました。
でも今回の中国一周作戦立案にあたり、この大寧寺の場所を調べてみると、アタシが回るであろうメインルートからはちょっと外れております。
アタシはそもそも大内義隆のことが好きな訳でもないし、大寧寺の乱にしても、戦というほどの戦って訳でもありません。
ってことで当初の予定ではスルーするつもりだったこの大寧寺ですが、下関から萩に向かう途中で寄ろうと思えば寄る時間がありそうだったんで、やっぱり寄ってみることにしました。


そこまでして墓参りしたい人物でもないよなあ

・・・が、やっぱりアタシ的には大内義隆はそんなに思い入れのある人物ではありません(^^;
いざ墓所の前まで来ても、こんな階段を登ってまでお参りしなくてイイよなと思い、境内を適当にぐるり一周して帰ることにしました。
まあそれでもやっぱり、この大寧寺には来ておいて良かったとは思います。もし来なかったとしたら、やっぱり自分的には大内義隆には大した興味が無かったということに気付くことなく、のどの小骨奥歯の何かのようにちょっとした引っ掛かりとして残っていたような気がしますので。


大寧寺
山口県長門市深川湯本門前1074の1

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