紀伊淡路四国上陸編 その2 (2018.9.12〜15)

※9月14日前編からの続きです。

9月14日 後篇



山崎の戦い古戦場跡〜明智薮 〜謀反人と討ち取り人のその後〜

天王山・・・超重要なココ一番の勝負のことをそのように言いますが、その語源となった場所こそがこの明智光秀と羽柴秀吉が戦った天王山なのです。


天王山を制する者は戦いを制す

なぜ明智光秀が本能寺の変を起こしたのか?諸説いろいろあるところですが、アタシは発作的犯行説を支持しております。

光秀:
「宿敵武田家を滅ぼしたところで今度は信長様は骨休めをしつつ毛利攻めの準備をしようと京都でのんびりしているみたいだけど、もしかしたら今って千載一隅の時なのでは? なにしろ信長様と来ればいつも大軍のド真ん中にいる上に逃げる時にはスタコラサッサな用心深いお方。それが今は嚢のネズミな京の真ん中で100にも満たない手勢しか持っていない上に柴田、滝川、丹羽、サルなどと言った連中もみな出払っておる。今の今まで信長様に逆らおうなんて気はぜんぜん無かったところだけど、こういうシチュエーションに出会ってしまったらやってみるしかないだろ!」

くらいのノリで何となくえいやーそれーってヤっちゃったのではないかというのが突発的犯行説です。というのは、信長を討ち取ったあとの光秀の行動があまりにもお粗末すぎるからなのですよ。
光秀は信長を倒して京を制圧すると、かなり限定的ではあるものの天下人的ポジションにつくことになりました。それから慌てて自分を支持して味方になってくれそうな大名に手紙を出すもことごとく断られてしまいました。
なおそのお誘い手紙についてなのですが、もし将軍や朝廷が黒幕だったとしたら、「天子(将軍)様からの勅命により信長を成敗したのだからお前も味方しろ!」とハッキリ書いてあるであろうに、そういうことが一切触れられていないのですよ。もしも光秀が計画的に反抗を起こしたのだとしたら、そのへんの根回しをしていないということがちょっと考えられないところなのですが・・・
さて光秀がそうこうアタフタしているうちに羽柴秀吉が神速で引き返してきて織田残存軍をまとめあげ、この天王山にて明智光秀軍と対峙します。


あの山が天王山です


本能寺の変勃発後も終始腰が落ち着かない明智軍に対し、カリスマ的リーダーのもと、さあ謀反人討ち取るべし!と士気旺盛な秀吉軍では最初から勝負にはなりません。あっさり負けた光秀はわずかな手勢を引き連れて敗走したのでありました。


明智光秀ここに敗れる

明智光秀は本拠地である近江坂本城まで逃げようとするも、その中間地点・・・山崎の地から3里ほど離れたところにある小栗栖村にて落ち武者狩りに遭い、あえない最後を遂げたのでありました。その明智光秀が討ち取られた場所と伝えられているのが今回訪れた明智藪です。


なんともわびしい・・・

そりゃあ確かに華々しいことがあった史跡という訳ではないにしても、この寂しさはなんなんでしょう?


この竹で突かれたのか?

なんでも明智光秀は農民に竹槍で突かれて殺されたとのことですが、まさかその最期の地まで竹薮だとは思いませんでした。


その近くには明智光秀の胴塚もあります

いかに謀反人とは言え、やはり落ち武者狩りというのは狩る方にも何か負い目のようなものがあるのでしょうか? 
この明智藪は明智光秀を討った小栗栖村の農民たちの後ろめたさと無念の最期を遂げた明智光秀の呪いが今なお漂い続けているようなおどろおどろしさを感じる場所でした。


山崎古戦場跡
京都府大山崎町

明智薮
京都府京都市伏見区小栗栖小阪町


義仲寺〜今井兼平墓所 〜男の死に様別れ際〜

齢27にして木曽の山奥で旗揚げして以来、波乱万丈の3年間の人生を駆け抜けた木曽義仲の最後は琵琶湖のほとり、粟津の地で訪れました。
一度は京の都を制圧し、朝日将軍と呼ばれた義仲もその最後はわびしいもので、その最後の場面に付き従っていたのは乳兄弟でもある腹心の今井兼平ただ一騎だけだったと伝えられております。以前から義仲と敵対していた甲斐源氏の軍勢にとりかこまれた義仲らは多勢に無勢、あえなく討ち取られてしまったのです。


木曽義仲ここに眠る

その義仲最後の地である粟津にはそんな悲劇の人生を歩んだ義仲の眠る義仲寺があります。


朝日将軍よ安らかに

また、そこから2kmほど離れたところには、義仲四天王が一人、今井兼平の墓もあります。


今なお伝わる豪傑の墓

この今井兼平という人物、義仲に最後まで付き従っていただけあって物凄い剛の者にしてすばらしくカッコいい人物です。その散り様は平家物語に書かれているところによれば、いよいよ義仲の最後が訪れようとしているとき、義仲が兼平に

「どうせだったらバラバラになるより一緒に死のう」

と弱気を見せたところ、兼平は義仲に、

「もし名も無い郎党に討ち取られでもしようものなら末代までの恥となります。この兼平が時間稼ぎをしますので殿はあの松原で自害くださいませ。」

と返したのです。
しかし兼平の助言もむなしく義仲が討ち取られてしまうと兼平は、

「東国の者どもよ、これが自害の手本だよく見ておけ!」

と叫ぶと、口に刀の切っ先を加えて馬から飛び降りるという壮絶な自害を遂げたのでありました。
なお上記は当方の意訳ですが、この場面の平家物語原文の美しさは類を見ませんので、興味のある方は是非お読み頂きたいところであります。


死後も義仲と共にいてほしいです

また、義仲寺にはなぜか松尾芭蕉の墓がすぐ隣に立っていたりします。


なぜこんなところに?

アタシもここに来るまで知らなかったのですが、なんでも松尾芭蕉は木曽義仲のことをいたく好きだったようで、自分の死後は木曽義仲の墓の隣に葬ってほしいと遺言していたそうです。


芭蕉の木に囲まれて

ここ最近になって木曽義仲のファンとなったアタシとしては、その話を聞いてなぜか少しうれしい気分になりました。


義仲寺
滋賀県大津市馬場1丁目5

今井兼平の墓
滋賀県大津市晴嵐2丁目4


この後は琵琶湖畔でうなぎ料理を食べて大津市に泊まりました。


9月15日


埋木舎〜彦根城 〜チャカポンの鬱憤と爆発〜

井伊直弼・・・幕末の嵐の中、幕府と言う名の泥船の舵を握りしめながら非業の死を遂げたこの人物の評価はなかなか難しいものがあります。
井伊直弼は幕末の嵐の中で2つの大きな大問題に直面しました。1つはアメリカとの間で通商条約を結んで開国するか否か? もう一つは病弱な将軍・徳川家定の次の将軍を誰にするかというものです。日本という国の行く末を決めると言っても過言ではないこの2つの難問に対しどう当たるべきか? 井伊直弼の前々任者である阿部正弘は外様大名にも広く意見を募ることでむしろ局面を混迷させてしまいました。また、前任者の堀田正睦は朝廷の許可を得ることにより場を解決しようとして逆に朝廷の介入を招いてしまい、事態はより収集のつかないものになってしまったのです。


井伊37万石の彦根城

この2人の前任者の轍を踏まないためにはどうすべきか? 江戸幕府の最高職・大老に就任した井伊直弼が選んだ道は自らが"赤鬼"となることだったのです。直弼は開国絶対反対な朝廷などガン無視してアメリカとの間で日米修好通商条約を結び、将軍継嗣問題についてはこれまた反対派のことを無理矢理に抑え込んで自らが押す徳川家茂を強引に次の将軍に擁立したのでありました。
また、直弼はこの二つの問題に関して自分の反対派を片っ端から捕えて死刑にしてしまうという「安政の大獄」を引き起こし、その結果、「桜田門外の変」にて白昼堂々と暗殺されてしまったのでありました。

さてこうして見ると、この井伊直弼という人物はコチコチの頭でっかちな強面エリート野郎のような印象を受けてしまうところでありますが、その半生は赤鬼などとは到底間逆なものでした。江戸幕府譜代大名筆頭・井伊家の第14男として生まれた直弼は、もともと間違っても井伊家の家督を継ぐことなど出来る立場ではありませんでした。井伊家居城・彦根城の門外に居をかまえた直弼は茶道や短歌などといった趣味に没頭し、チャカポン殿(茶・歌・ポンは鼓の叩く音)などと呼ばれていたのです。


彦根城正門の向こう側には・・・

ってことで今回訪れたのがこの部屋住みチャカポンの直弼が鬱憤した半生を送った埋木舎です。直弼自らが名付けたこの埋木舎は、兄が城藩主を務めて藩士たちが藩政を担うために登城する彦根城の堀の外側にして正門の見えるところにあるのです。


この屋敷で埋もれるのか・・・

直弼自身は向上心の高い人で、埋木舎の中でも決して朽ちることなく、チャカポンのみならず学問にも精を出し、高名な学者たちとも親交を深めていたのです。
そんな直弼が毎日この埋木舎から登城する裃姿の藩士たちを直弼はどのように見ていたことでしょう?


今に見ていろよ

さてそんな直弼が色々な運と縁が重なって第十四代彦根藩主となり、更に幕政ナンバー1の大老の座についたのです。それまで黒船と将軍継嗣問題でアタフタしていた連中のことをどのような眼で見て、自分はどのようにふるまうべきと思ったのか? 想像するまでも無いでしょう。


井伊の赤鬼と化したチャカポン

直弼は今まで穀潰しのチャカポン扱いしてきた連中を見返してやろうと赤鬼となり果ててしまったのでした。
そうして苛烈とも言えるリーダーシップで日本を開国へと導き、また一方で過激すぎる粛清の嵐で優秀な人材を葬り去ってしまった井伊直弼・・・その原点はこの埋木舎にあったのではないかと思います。

さて前述のとおり、この埋木舎は彦根城の真ん前にあります。
前々から書いているとおり、アタシは戦国の世が終わってからの城にはあまり興味が無いので、この彦根城も今まで来る機会はあったものの探索はしておりませんでした。
ですがさすがにここまで来たら城の中をちょっと覗いてみようという気にもなります。
ってことで以下、彦根城の写真を貼らせて頂きますね。


ひこにゃんがお出迎えw


さすがにカッコいい国宝天守閣


天主から見た琵琶湖

・・・ってこれだけです(爆)
この彦根城は井伊直政が築いたという訳ではなく、しかも築城されたのが国宝天主を含めて大坂の陣のあとのことなので、本当に文章にして書きたいことが無いのですよ(^^;
でもあえて何か書くとしたら、彦根の皆さんがこの城をどれだけ大事にしていかってことでしょうか?
最初にこの彦根城に入ろうとしたとき、なんと!天主の中どころか城門の内側に入ろうとしただけで800円の入場料を取られてたけえ!って思ったのですよ。同じく国宝天主も松本城は天主のすぐ前まで1円も払わずに行けるというのにこの差はなんなんだと。
でも城の中に入ってその理由がすぐさま分かりました。大勢の人たちが一生懸命場内を掃き清めてきれいに掃除しているのですよ。天守閣の内部にもたくさんの掃除人さんがおりました。
アタシは今までに色んな城を訪れておりますが、ここまで手入れが行き届いている城は無かったと思います。これまた前々から書いているとおり、アタシは地元の人たちが史跡を大事にしょう盛り上げて行こうという姿勢には非常な好感共感を覚えますので、これなら800円の入場料を払うくらいは安いものだと思いました。


彦根城・埋木舎
滋賀県彦根市


以上を持ちまして、2018年夏の報告を終了します。
今回の旅を終えて思ったことは、やっぱり自分は歴史家なんだなあということでした。
実は記事には全く触れておりませんが、今回の旅においてアタシはイルカの背ビレにつかまって一緒に泳ぐという夢のような貴重体験をしていたのです。その時はもうそのあまりの夢ごこちに、もうこの後の予定全部キャンセルして帰ってもいいやと思うくらいに大満足したのでした。・・・が、次の日に屋島を見下ろす丘の上に立った時、昨日のイルカ体験以上の震えが体を襲ったのです。その時改めて、やっぱり自分は歴史と史跡探訪が何よりも好きなんだなあってことを実感しましたね。
来年はいったい何処の史跡を訪れてどんな感動を味わうことができるのか? もう今から楽しみがとまりませんよ(^^)


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