今日は大河ドラマ・天地人で一躍有名となった直江兼続の居城、与板城を攻略して来ました。
直江兼続と言えば知勇兼備な名宰相というのが一般的イメージかと思いますが、実のところアタシはこの人のことをそこまで高くは評価しておりません。
大河のときに整備されたのかな?
と言ってももちろん、このように後世まで名を残し語り継がれているのですからタダ者では無いことは間違い無いと思います。ですが果たして豊臣秀吉が評したような「天下執柄(しっぺい)の器量」というほどの物なのかどうかは微妙なところのように思えるのですよ。また、この人のキャッチフレーズともいえる「愛と義」については、いやそれ絶対違うだろって思います。
ってことで今回は、一般的には愛と義の戦国武将と語られている直江兼続のカッコ悪いお話をしてみましょう。
なかなか大きな山城です
まず直江兼続と言えば井の一番に有名なのが、徳川家康に送った堂々たる挑戦状・直江状の一件でしょう。この一件は超有名エピソードなので細かい説明は省略しますが要するに、豊臣秀吉死後、家康相手にイヤミったらしい書状を送ってケンカを売ったものの・・・それが結果として関ヶ原の戦いを誘発、上杉家は西軍に加担して敗北者となり、家康に土下座カマして領土を大幅に削られてしまったという話です。そのうえ一連の関ヶ原の戦いにおいて兼続は自ら2万!の軍勢を率いて東軍方の手勢わずか500人が籠る長谷堂城を攻めるも攻略できなかったという失態も犯しております。もっともこのとき敵将の最上義光からは
「その撤退戦の指揮は見事なものだった」
と評価されているのですが、これむしろバカにされているんじゃないかと思うのはアタシだけでしょうか? 後に兼続は江戸城内で伊達政宗とすれ違った際、完全シカトして通り過ぎたところを政宗に
「挨拶くらいしろこの無礼者!」
と咎められたのですが、
「あなたのことは(退却途中の)後ろ姿しか見たことがありませんでしたので(政宗殿とは)気付きませんでした。」
などというなんとも強烈な悪態をついたというエピソードが残っているのですが、いやそれむしろアンタのことやろ!って言いたくなりません? 兼続はこの長谷堂合戦時のみならず、かつて越後領内で起こった「新発田重家の乱」を鎮圧するに当たっても、圧倒的大軍を持ってして返り討ちにされたという前科もあるのですから。
また兼続と政宗と言えば、天正大判のエピソードというのもあります。
豊臣政権下で天正大判というレア黄金アイテムを手に入れた政宗が諸大名にそれを自慢げに見せびらかして盛り上がっておりました。そこでよせばイイのに政宗は、その様を遠目に見ていた兼続にも声をかけ手に取らせてみようとしたらなんと!
「拙者の手は采配を握るためにあり、そのような不浄なものを触るためのものではない。」
などと言われ、天正大判を扇に乗せて投げ返されたという話です。いやこれむしろ政宗よりも兼続の方が空気読めねえ嫌なヤツって感じがしません?
他にも兼続で有名な腹黒逸話というと、「閻魔大王への手紙」というのもあります。この話の内容を思いっきり簡単に説明すると、誤審冤罪で死刑となった可哀想な藩士の遺族に十分すぎる賠償を提案したものの、それじゃダメだ故人を返せ返せ!とうるさかったので、
「だったら閻魔大王に手紙書いてやるから直接行って取り返してこいや!」
とその遺族を叩き斬ったというなんとも酷いお話です。
もっとも↑の逸話はおそらくみんな史実では無い講談話なのでしょうけれど、それでもやっぱり直江兼続は当時の人の目から見て性格の悪い嫌なヤツってイメージがあったからこそこんな話が伝わっているのではないかと思います。
遺構はあんまし無かったです
他にも兼続というと上杉家が越後から会津に転封になった際にこんなゲス行為も働いております。当時は移転元の領主は新領主のために年貢を半分残して出ていくのが通例だったのに、なんと兼続は米蔵を空っぽにして出て行ったのです。そのうえ会津に引っ越し完了後にその旧領越後で一揆を扇動して旧領奪還を図ったなんてこともやったという・・・ってアンタこれ大嫌いな政宗とやってること一緒じゃん!!全くこの兼続という人は・・・
水が無ければ籠城できない
また兼続と言えば関ヶ原の戦いで敗れて会津120万石から米沢30万石に領地が減った際にも家臣を一切リストラしなかったことも美談のように語られておりますが、これ果たして本当に良かったのでしょうか? 結果として移転後の家臣一同はド貧乏暮らしを強いられた訳ですし、その余剰人員という負の遺産はおおよそ150年後に上杉鷹山が経済改革を推し進めるまで米沢の人たちを苦しめることになったのですから・・・
本丸跡はこんな感じ
ってことでアタシ的結論としては、直江兼続は戦に弱く義と愛などとは程遠いコスい嫌な性格の持ち主で、名宰相などと呼ぶには程遠いんじゃないの?って感じです。
兼続の家臣が植えたと伝わる一本杉
とは言ったものの、アタシは直江兼続のことは嫌いではありませんし、十分に優秀な人だったと思っております。アタシはこういうどうにも小者臭のする人にはなんとも人間味と親しみが感じられますし、それに兼続はなんのかんのとやりたいことを思う存分にやり切りながら家を潰さず名を遺したんですからやっぱ凄いですよ。
この辺に住んでいたみたいです
超絶に語られることの多い歴史上の偉人だって令和に生きる我々と同じ人間ですし失敗だってします。直江兼続のことだって、義の人だ愛の人だと過剰に持ち上げるよりも、むしろこういうダサいコスい人間臭いところを惜しみ隠さず語り継いで行き、ダメなことはダメと評価する、アタシはそれこそが"愛"なのではないかと思っております。
・・・ってアンタの兼続評だってずいぶん偏ってるじゃないか!と言われてしまったらグウの音も出ませんけどねw
そんな兼続のこと嫌いではありませんw
与板城
長岡市与板町与板乙835
このあと近くの公園をおさんぽしました☆
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