山形城・最上義光 〜キャラ立ちしてない?狐さん〜 (2023.7.1)

今日は最大57万石!もの領土を有しながらも今一つ影が薄い東北の英雄?最上義光の居城・山形城に行ってきました。


現在は山形市のど真ん中の霞城公園となっています。

山形城はアタシの住む新潟市からそこまで遠い場所にある訳でも無いのになぜ今まで訪れていなかったのかと言えば、なんのことはありません。最上義光の影が薄いからという理由です。・・・なんて言うと山形の人や最上義光のファンから怒られそうですが、実際アタシ的にあまり興味を引く人物では無かったので仕方ありません。でもだからと言って最上義光が大したことの無い人物だったのかと言えばそんなことは無いんですよね。実際アタシも山形城を訪れるに際して改めて最上義光の事績を思い返してみると、やっぱこの人なかなかおもしろい人だよなと思い直すこととなりました


土塁さっそくキターー☆

最上義光は徳川家康に3年ほど遅れて現在の山形県の一部を領する国人以上大名未満くらいの家の嫡男として生まれました。ですがすんなり家督を継げたのかと言えばそんなことは無く、まず義光の第一の敵として立ちはだかったのは実の父だったのです。なぜ最上父子が対立したのかはよく分かりませんがとにかく、義光はそんなゴタゴタした家中の騒動を鎮めてなんとか家督を継ぐことに成功します。


石垣と水堀もあります

最上家内での争いで勝利した義光の次なる敵は、天童氏、東根氏などと言った最上氏庶流のいわゆる国衆と呼ばれる連中でしたが義光は様々な謀略をもってしてこれをねじ伏せ、現在の山形県一帯の一大勢力に躍り出ることとなりました。
次なるライバルは伊達や大崎と言った周辺大名に格上げされることになったのですが、問題はこの周辺大名の一つ、伊達氏なのです。そうです伊達氏と言えばアイツです、戦国一の伊達男・伊達政宗w なぜ最上義光が今一つマイナーなのかと言えば、隣にコイツがいたからなのではないかと思います。


思わずシビレる土塁&空堀跡

最上義光とて、最終的には57万石もの大大名となり、その他後述するような面白かったり悲劇的だったりするエピソードがあるっていうのに、戦国大名の奥州筆頭というとやっぱり伊達政宗のイメージが強烈すぎです。それなら義光は政宗のライバルポジションを抑えればキャラ立ちしそうなものですが、政宗の母は義光の妹、つまり二人は叔父甥の関係であり、時によって敵になったり味方になったりなめんどくさい仲なのです。そんでもってこの最上義光の妹である伊達政宗の母である保春院って人もさすが政宗の母っていうだけの奇抜なエピソードを残しているため、ますます最上義光のキャラがかすんでしまっているのですよ。


石垣の中は公園広場

奥州情勢は複雑怪奇のためなぜそうなったかの説明は省きますが(とうかアタシ自身理解できていない)あるとき、伊達政宗が義兄である大崎義隆&叔父である最上義光連合軍と争うことになった大崎合戦において、なんと!駕籠で戦場に乗り付けた保春院が両軍の間にドーンと駕籠に乗ったまま居座るなどという破天荒な抗議運動?をもって戦を鎮めてしまったとかw そのうえこの保春院は政宗を毒殺して弟の小次郎を立てようとしたなどという鬼母としても有名です。(ただしこの話は創作の可能性大なのですが)
こんなことやられたんじゃあ妹にまでキャラを食われてしまっても仕方ないですね。



本丸跡の土塁もすげー

最上義光と言えばこの話も欠かせません。
豊臣秀吉から関白を譲り受けた豊臣秀次が最上義光の娘・駒姫が美しいという噂を聞き、半ば強引に側室に加える運びとなったのですが、その直後に秀次の謀反が発覚します。(いわゆる秀次事件)怒り狂った秀吉は秀次一族を皆殺しにするのですが、その殺すリストには駒姫も加わっていたのです・・・これが駒姫が秀次寵愛正室同然だったというならまだ話は分かるのですがなんと!殺された駒姫は秀次に一方的に見初められていただけでまだ輿入れした訳でもなく、一説には会ったことが無かったどころかそもそも側室にすら加わっていなかったとも言われております・・・


現在絶賛発掘中

駒姫のことを激愛しており、もともと秀次に駒姫を渡したいなんてこれっぽっちも思っていなかったのにこの仕打ちです・・・秀吉死後、義光が豊臣家を見限って徳川方についたことは当然のことと言えるでしょう。・・・と、この駒姫の悲劇は有名なれど、最上義光自身が何かしたって話では無いんですけどね・・・


大手門は完全江戸時代仕様

関ヶ原の戦いにおいて当然東軍に属した義光はその場外戦で、山形城の支城・長谷堂城に押し寄せてきた直江兼続の軍勢を見事に撃退し、(詳しくは長谷堂城の記事をお読みください)その功により今までの24万石から大幅加増を受け、57万石の大大名に躍り出ることとなりました。関ヶ原直後の50万石以上の大名というと、徳川親藩を除けば、前田、島津、伊達、黒田、加藤、池田くらいなものです。ということは最上義光は関ヶ原直後の時点においては、外様大名BEST10に入るほどの大身だったということになります。・・・ですが関ヶ原の大幅加増と言うと、福島正則や黒田長政、山内一豊と言った連中のことはそこそこ話題になっているような気がしますが、最上義光の件についてはあまり有名でないような気がします。
また、慶長出羽合戦についても、どうにも直江兼続や前田慶次、伊達政宗あたへんにスポットが当たってしまい、やはり義光の今一つ影が薄い感が拭えません。いちおう義光本人に関する話としては、撤退途中の直江兼続を追撃したらなんと!殿(しんがり)の放った銃弾が見事義光本人の兜に命中し、むしろ見事な撤退戦を演じた直江兼続すげえなんて話になってるってんですから義光も浮かばれませんね。


やっぱり石垣と土塁が美しい

義光は豊臣家が滅びる前年に山形城にて死去するのですが、その死後わずか9年後に最上家ではお家騒動が勃発して改易処分となってしまいます・・・こうして山形57万石の大大名・最上義光の功績は、山形の地において語り継がれることも無くなってしまったのでありました。それどころか最上家のあとに山形に入った鳥居家やライバルだった伊達家に都合よく貶められていた感さえあります。
そんなこんなで最上義光さん、戦国武将としては並々ならぬ器量を持っているはずなのに、なんとも「持ってない」御仁だなと思わされますね。


イイ城でした山形城

そんな最上義光ですが、ちょっとした戦国ファンの間では鮭様の愛称で親しまれております。義光は鮭が大好きで、家臣に送った「鮭おいしかったよ。ありがとう。」という書状が何枚も残っており、義光から将軍家や他の大名家に送られる贈答品も鮭が定番だったとかw


お城の隣には最上義光歴史館が☆

また、最上義光と言えば名前が紛らわしい戦国武将の定番として真っ先に名前があがるというキャラ立ちもしていたり。どうみても「よしみつ」だろそれ「よしあき」って読むの無理だろってのも戦国話の定番ですね。


これが噂の駒姫ちゃん(T T)

そんな最上義光はまたの名を「出羽の狐」とも呼ばれております。なんだか強いんだか弱いんだか分からないこの通り名もまた、いろいろ微妙で持っていない義光になんともふさわしいなって思いますね。


でも銅像はめちゃカッコいい

ってことで今回訪れた山形城・霞城公園ですが、写真で紹介したとおり、城跡遺構&公園としてはかなり見どころ沢山でおもしろかったです。
こういう江戸時代の城跡公園なんかにありがちな、歴代城主がどーこー石垣や櫓の技術がなんちゃらかんちゃらなんて話をあまり表に出しすぎず、鮭大好きな狐さんにしっかりスポットライトを当ててくれてるのもイイ感じでした。
色々微妙なところもあれど、実はかなりの英傑でイイ感じにキャラ立ちしている最上義光さん。色んな意味でもっと評価されてもいいような気がしますね。


山形城 霞城公園
山形県山形市霞城町1


山形に来たら絶対食べよう☆

お昼ごはんは山形名物・冷たいラーメンを食べました☆
一見ふつうのラーメンにしか見えないのですがこれなんと!スープが冷たいのですよ(><)
山形名物冷たいラーメン☆夏場に食べるとめっちゃおいしいですよ(^^)
ちなみにこの写真は「河北名物肉そば処 立花」というお店です☆
冷たいスープ&ラーメンはもちろんですが、河北名物の薄切り鶏肉がほんとのほんと超おいしいですよ(^^)




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