臼井城 〜負けても恐ろし越後の軍神〜 (2018.2.12)

越後の軍神・上杉謙信は毎年のように三国峠を超えて関東へ出兵しておりました。
一口に関東と言ってもものすごく広いです。なにしろ北は群馬県から南は千葉県まで、戦国時代においても関八州として8つの国が関東地方に分類されていたのですから。

上杉謙信の関東出兵なのですが、ふつうに考えればその有効射程範囲はせいぜい越後(新潟県)の隣国の上野(群馬県)や下野(栃木県)くらいが本国との連絡を取りつつ支配できる限界範囲と思うことでしょう。
・・・が、我らが軍神・謙信にはそのような常人の常識など全く通じることはありません。謙信の関東出兵とは、上野下野なんぞは軽く飛び越えて、常陸(茨城県)や相模(神奈川県)まで荒らしまわって来るのが通常モードだったのですw


こんなところまで一体何しに・・・


さてそんな越後のヘンタイ軍神・上杉謙信の通算戦歴は60勝2敗8分程度と言われておりますが、その貴重な1敗の舞台となったのがこの下総国(千葉県)臼井城です。
まずは勝ち負けうんぬんの話はおいといて、はるばる越後から山超え谷超えいったいそんなとこまで何しに行っているんだYO!と思うのは筆者だけでしょうか?(^^; 


今は梅と桜の公園となっております。


上杉謙信の生涯最大版図の南端はせいぜい上野の北部8割程度までです。
ということは、この下総にある臼井城攻めは自分の領地から少なくとも武蔵1国(埼玉県・東京都)を飛び越えたところまで行っているってことですよね? ふつう戦国大名というものは自分の領地の隣にある城から順に攻めて領土を拡大していくものだと思うのですが、そんな常識はこのヘンタイ軍神には通用しないようです(^^;



領土にできるわけでもない臼井城下の町


だったらいったい何しにこんなところまで行っていたのか? 謙信と言えば領土のためでは無くて正義のために戦をするというヘンタイ軍神です。ということは、この臼井城攻めは関東管領の名において関東の平和を乱すものを懲らしめるためというのが主たる理由だったのでは無いかと思います。だって仮にこの臼井城を攻め落としたところで、こんな飛び地を領土支配することなんてできっこ無いんですからね(^^;



向こうに見えるのは印旛沼


さてこの臼井城の戦いなのですが、城を囲んでいた謙信軍が北条方の猛将・松田康郷にボコボコに蹴散らされたと伝えられております。もっとも宿敵・武田信玄の砥石崩れほどには悲惨なことにはならなかったようですが、それでもこの敗戦によって謙信は関東での名声を多いに下げて影響力を失うことになってしまったのでありました。



松田康郷が勝どきをあげたであろう本丸跡


上杉謙信が戦国で一番戦の強かった大名であるということに異論を唱える人は殆どおりません。それはこの臼井城の敗北を見ても分かることです。
なにしろ自分の領土をはるばる離れた城まで誰にも妨害されることなくやって来て、しかも領土が広がる訳でもない戦だというのに家臣は黙ってついて来て、あげく大損害を出して敗北を喫しながらも悠々と越後の国まで引き上げることが出来て、その後も何食わぬ顔で越後の軍神として周辺大名に恐れられていたんですからね。
上杉謙信の本当の恐ろしさ・・・それは無益な戦をこれでもかこれでもかと仕掛けながらも部下に文句の一つも言わせずしっかり統率し、なお且つ財政を破綻させなかったことなのではないかと思います。

現代文明の力を使って新幹線で新潟から出撃し、電車2回も乗り換えて遠いダルい金かかる〜!ってヘトヘトになって、改めて上杉謙信の真の恐ろしさヘンタイさを実感した臼井城攻略作戦でした。


臼井城
千葉県佐倉市 京成臼井駅から徒歩15分


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