富岡製糸場 〜真実は二つ?〜 (2013/12/14)

群馬県南部に位置するこの富岡製糸場、明治日本の近代化の象徴として教科書にも載っているので、ほとんどの方がその名前はご存知でしょう。でも果たしてその実態はというと、筆者は相矛盾する二つの話を同時に聞かせれております。
一つは「ああ野麦峠」や「女工哀史」にイメージされる、女工たちの過酷な条件下での重労働…そしてもう一つはその話とは全く逆の、女工たちは最新鋭の設備の下で近代的最先端労働を行っていたという話…いったいどっちの話が正しいのでしょう?


それを知るためにも

これだけ有名で尚且つ↑な逸話が色々出ている富岡製糸場ですが、その建物は今なお明治期ほぼそのままの姿で残っているので、多数の観光客が訪れております。


門を見る限りは明るいイメージ

それにしても人大杉です。明治日本の近代化を支えた女工たちも、フランスからやって来た工場技師たちも、絹製品を作るための工場が、まさか100年後にこのような観光地になっているとは夢にも思わなかったことでしょう。日本経済全体のために未来のためにと赤字覚悟の操業を決意した渋沢栄一も、100年経ってもなおこのような形で稼動している富岡製糸場の姿を見れば、きっと喜んでくれるのではないかと思います。


今なお立派でカッコいい

先ほど書いたとおり富岡製糸場の建物は、ほぼ明治そのままの外観で残っているとのこと。昨日まで時代劇のような世界で暮らしていた武家の娘が、いきなしこんな見たことも無い大きなレンガ作りの建物の前に連れて来られて、
「明日からココで働いてくれ」
などと言われたら、いったいどんな反応をするでしょう? もしもアタシが女工だったとしたら、
「こんな綺麗で立派なところで働けるんだ! よーしがんばるぞっ!」
という気持ちになったのではないかと思います。


こんな機械を使ってたんだ

富岡製糸場には沢山の建物がありますが、最初に入った工場棟は、当時の機械や写真などが飾ってある資料館となっておりました。アタシは博物館系があまり好きではないのでものの2分くらいでスルーして来ましたが、なかなか面白そうな感じではありました


これはなんか暗い感じ

さて資料館的な建物を出て、隣の工場スペースに行って見ると、こっちの方はなんだか最初に見た建物とは違って陰な空気が満載です。もしもアタシがココに連れられて来た女工だったとしたら、
「え、やっぱなんか暗くて重い…やっぱ田舎にいた方が良かったかな…」
などと不安に思ってしまいそうでした。


これぞ正に工場だっ!

そんな不安に謎めいた工場の中に入って見ると、おくまでズラリ重めかしい機械が並んでいます。それはもうアタシが製糸工場というものに対して抱いてイメージにピッタリな光景でした。


これが全部動いていたなんて

でもさすがにこの機械は明治時代のものではなく、昭和40年代頃に使われていたものだそうです。そういう訳で、これは明治の女工たちが働いていた風景とは全く違うものなのですが、それでも不思議と「これじゃない!」感は沸いてきません。使う機械は違えども、女工たちはみんな並んで一生懸命作業していたであろうことは同じでしょう。つらい日もあれば仲間たちとの楽しいこともある、エラい人がいれば下っ端もいるし、楽な時期があれば忙しい時期もある…労働ってそういうモンですよね。
工場の空気というものは、きっと明治も昭和変わらないんだろうなと、そんなふうに感じました。


思い出ぎっしり?

富岡製糸場内には立ち入り禁止の箇所がたくさんあり、まだまだ発掘調査もやっているようです。あの建物には女工たちが住んでいたそうなのですが、女工たちが何を思いどのように過ごしたのか?そんなことが感じられる思い出の品が発掘されてほしいものです。

さて冒頭に書いた富岡製糸場について説明される相矛盾する二つの話なのですが、きっとそれはどちらも本当のことなのではないかと思います。だってそもそもこの人間社会、幸せな人もいれば不幸な人もどちらもいます。身近な学校や会社を見ても分かるでしょう。
だったら明治と平成の違いがあれど、富岡製糸場だって同じ人間関係の縮図です。エラくて楽にしている人もいれば、下っ端で過酷な仕事をしていた人もいたことでしょう。長い長い歴史の中では、経営者が仏のときもあれば鬼のときもあったはずです。それを一くくりのイメージで語ろうとすることがそもそもの間違いでしょう。

今から100年以上前、この建物の中でたくさんの若い女性が精一杯働いて日本の近代化に貢献してくれた。そこには時代時代に楽しいこともあれば辛いこともあったんだろうなあ…富岡製糸場とは、そんな日本の想いと歴史がギッシリ詰まった場所でした。

※その後、女工哀史を読んでみたのですが、やはり女工の労働環境実態がどうだったのかは結局よく分かりませんでした。ただ間違いなく言えることは、当時は日本全体が貧しかったので、実家の農村にいても過酷な農作業が待っていたということだけです。


※2020.10.3 野麦峠に行ってきました。

※さらにその後、あゝ野麦峠の映画を見ましたが、これは物凄い名作映画だと思います。
ただ映画としての出来がすばらしいことと、それが歴的事実であったかどうかは話は別です。
冬の野麦峠越えが過酷なものだったことは間違いないでしょうが、果たして女工たちの労働実態があれだけ悲惨なものだったのかどうかは分からないところです。


富岡製糸場 
群馬県富岡市 上信越自動車道・富岡インターから10分


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