手取川古戦場跡 〜覇王蹴散らし軍神〜 (2020.8.1)


1577年11月、加賀国を流れる手取川にて柴田勝家率いる織田軍4万と上杉謙信率いる2万の軍勢が激突しました。
合戦の詳しい経緯は「七尾城〜内と外の絶望〜」を読んで頂けたらと思いますが、この戦において軍神謙信が貫禄を見せて織田軍をフルボッコに追い落としたと言われております。


加賀の大河をはさんで

もっとも、この手取川の戦いのことは信長公記には載っておらず、上杉方の文書にしか記録がありません。そのため実はそんなに大した戦じゃなかったのではないか?果ては手取川の戦いの存在そのものを疑う説もあります。


それでも伝説は残っている

とは言ったものの、

上杉に 逢うては織田も手取川
 はねる謙信 逃げるとぶ(信)長


という落首が残されており、信長公記においても、

・柴田勝家軍4万が七尾城の救援に向かうも援軍は間に合わなかった。

という記述は残されておりますので、規模の大小はともかくとしても、やはり手取川の戦はあったのではないかと思います。
おそらくは信長公記の作者・太田牛一が自軍の負け戦のことだからあまり書きたくなかったというところでしょう。



手取川の真実はいかに?

今から450年前にこの手取川にていったいどのような戦があったのか?
白山を望む水枯れ気味の大河を望み妄想に耽ると、やはり越後人の筆者の脳裏に浮かぶのは、軍神謙信率いる越後軍団が織田軍を蹴散らし無双する姿でした。

なお、この戦いの後に謙信は、

織田軍も思いの他に大したことは無かった。

と書状にしたためております。
そしてあくる1578年4月、謙信は領内に次なる遠征に向けての大動員令を発したところで急遽脳溢血を発し、帰らぬ人となってしまいました。
謙信はいったい何処を攻めるつもりだったのか? それは手取川で止めを刺すことができなかった織田軍との決着をつけるつもりだったとも言われております。
もし軍神謙信が数万の大軍を率いて北陸道を南下して安土城まで攻め寄せていたら・・・いったいどうなっていたことでしょうね?
戦国の妄想は、とどまるところを知りません。


手取川古戦場跡
石川県白山市湊町146


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