上杉謙信・物見の岩〜大峰城 〜川中島合戦の勝者〜 (2022.3.19)

戦国最強武将・武田信玄と越後の軍神・上杉謙信が大マジ超ガチでぶつかり合った、第四次川中島合戦。その戦国史上最大最強レベルと言っても過言ではない大激戦の結末は?
以前に妻女山の記事にも書いたことがありますが甲陽軍鑑などの資料によれば、前半戦は軍勢を二手に分けていた武田軍が奇襲攻撃を受けて大苦戦したものの、後半戦では別動隊が帰って来た武田軍が盛り返し、結果、双方大損害を出すも引き分けに終わった的に語られているのが一般的なのではないかと思います。・・・が、果たしてそれは正しいことなのでしょうか?

そもそもなぜ川中島の戦いが起こったのかを思いっきり簡単に説明すると・・・
信玄に奪われた信濃の地を謙信が奪還しようとしたというのがそのあらましです。と言っても、信濃はもともと謙信の領地だったという訳ではありません。甲斐から信濃に進出した信玄に放逐された、小笠原長時や村上義清と言ったもともとの信濃の領主に助けを求められた謙信が、それに応じて出陣したというのがこの話のちょっとややこしいところなのです。
川中島の戦いの本当の勝者は信玄と謙信のいったいどちらだったのか?
今回訪れた「上杉謙信の物見岩」から川中島の地を見下ろしてみて思ったことは・・・


善光寺裏の物見岩

てことで物見岩なのですが、第四次川中島合戦において謙信がこの場所から武田軍の動きを見ていたと伝えられる場所です。


これはイイ眺めだ

善光寺裏手の小山の中腹に位置し、その切り開かれた岩場からは善光寺平の絶景を見下ろすことが出来ます。なるほど軍神謙信がこの絶好ポジションを取ったのなら山本勘助のキツツキ戦法を見破るくらい朝飯前だっただろうし、信玄をあと一歩のところまで追い詰めたというのも当然の結果だろうなと頷けました。


武田軍の動きが一発で分かりますね

ですが結局、武田軍は信玄の弟・典厩信繁や軍師・勘助を失ったものの上杉軍の猛攻をなんとか跳ね返し、謙信はそのまま越後に退却してしまったのです。


物見岩の上には・・・

また、この物見岩の上には大峰城という小城があったようなのですが、詳しい記録は残っていないものの、第四次川中島合戦後は武田の勢力下に入っていたようです。


こんな空堀の残る小さな山城がありました。

ということは、第四次川中島合戦の結果、信濃の地は武田信玄の領土としてほぼ確定されたと言っていいでしょう。


この模擬天守閣はちょっとセンス悪いw

戦争の勝ち負けとはどのように判定するか? これはズバリ、戦争目的を達成したかどうかの一点にかかっています。ってことで川中島合戦における信玄と謙信の戦争目的を掲げて見ると、

武田信玄:信濃を我が領土とする。
上杉謙信:信玄に奪われた信濃の地を取り返す。

こうして比べて見ると一目瞭然ですね。肥沃に広がる善光寺平を我が物にした信玄こそが川中島合戦の勝者と言って差し支えないのではないでしょうか。今回この物見岩の上から信玄が手に入れた物の大きさを眺めるにつけ、改めてその感を強めることとなりました。


・・・だがまてよ?

ですがもう一度よくよく改めて考えてみると、やはりこの"表面上の"結果だけを持ってして川中島合戦の勝者は信玄と決めつけてイイものかどうか? そんな疑問を抱かせてくれるからこそ上杉謙信とはヘンタイ軍神なんですよ。
これは謙信の一生と行動パターンを見ていて誰しも思うことなのではないかと思いますが、どうにもこのヘンタイ軍神さんはたんに戦そのものが好きなのであって、領土を取ろう維持しようという気などはサラサラ無いように見える場面が多々あるのです。



岩から見おろし考えてみた

なるほど確かに、川中島合戦のそもそものきっかけは信濃を追われた豪族たちを謙信が助けようとしたというものです。・・・が、↑的視点を持ってして考え直してみると、小笠原長時や村上義清は謙信が自分の旧領を奪還してくれることを期待していたのでしょうけれど、もしかしたら謙信はそこまでは考えていなかったのでは? たんにワルモノ信玄を成敗してくれる!くらいにしか思っていなかったような気がするのです。
ヘンタイ軍神・上杉謙信にしてみれば、きっかけはどうあれ戦国最強武将・武田信玄と熱い魂をガチガチにぶつけ合って後世何百年に渡って語り継がれる伝説の合戦ができたということだけで戦争目的を達成していたのかもしれません。


上杉謙信の物見岩〜大峰城
長野市箱清水3丁目22の40 霊山寺から30分ほどで登って行けます。

また、大峰城までは霊山寺の前を通る戸隠バードラインを通って車で行くことできるようです。


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